ご両人(当家の女主人と母)の会話にはなかなか閉じ目が見つけ難い様子で、
私は一人、外へ出てみました。
表の通りの直ぐ向こうが幅の広いクリークであり、その割に水量は少なく、
真ん中へんを細々と流れていました。
両側の黒々と盛り上がった泥土に、和船が、底を上にして干されていたり。
私にとっては非日常――見慣れない光景を日常として生きている人たちがいるのだ、
人それぞれの世界があるのだとでもいった感慨を覚えたでしょうか?
この情景につき、今度いただいたお手紙から推測されるのは、
このお宅がH家であり、昭和24(1949)年生まれの私が4,5歳のときとすれば、
ご当主が亡くなられた頃でしょうか?
何となく家内がガランとしているというような印象も残っているのです。
A後になりましたが、こちらの記憶の方が、@を1年ほど遡っているのではと思われます。
これには前段と後段があり、
前段の方は、
広くはない座敷に床が延べられ、どなたかが臥せっておられます。
但し、枕頭には丈の低い屏風が立て回されており、私の位置からはお顔が窺えないのです。
母が前屈みになりつつ、その方と低い声で会話。
盆の上に吸い飲みなどが見て取れ、その方が病んでおられると腑に落ちます。
昼間であるはずなのに室内は薄暗く、私は、予兆めいたある種の重苦しさに捉われています。
その方の病は軽からぬ性格のもののようです。
後段は、
前段とは一転して、私は、母屋に建て増されたかと思われる、床が一,二段低い、
しかし明るい部屋へ連れられて来、
母ではない女性から、「これが女の子の部屋というものよ、よく見ておきなさい」
といった意味のことを告げられたと思います。
前から後へのこの移行は、私の心の重苦しさへ対する、当家の方の配慮ででもあったかもしれません。
窓辺に沿って二、三の勉強机が横に連ねられ、
カーテンの絵柄などは、いかにも当時の娘らしさが反映されていたのでしょうが、
私にそういう判断ができるはずもなく唯だポカンとしていたのでは?
それぞれの机の上には文具や、教科書、ノートの類が乱れもみせず配置されてもおり。
これもH家とすれば、臥せっておられた方はご療養中のご当主であり、
後段のお部屋は、Nさん(「様」とすべきところ、堅苦しさを避けて「さん」で失礼します)方
ご姉妹の居室であったのかもしれません。
あたかも、前後段は、
亡くなろうとする方と、これから花開いて行こうとする方々との両極に比せられるかのようです。
もしかすると、人生における生と死の対比を、幼児ながら切実に身につまされたが故に、
これら@、Aの記憶はいまだ、かくも鮮明であるのかもしれません。
以上、想念任せに書き散らしましたので、失礼な点もあるかと思われますが、
その節はご容赦下さい。
時節柄、益々のご自愛を祈りつつ。
令和5年〇月〇日 池見隆雄
N・Hさんからの第2信を、
私自身の存在の薄暗がりに光の当たるのを待つかの思いで待ちわびている
――私は、何しに、この世へ生を享けたのやら?
(終わり)
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