みんなの広場「こころのパレット」

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〈”青空”つながり〉 引用
池見隆雄 2023/6/6(火)14:45:10 No.20230606134006 削除
 40年以上の長年月、所蔵者から見捨てられたも同然であった書物が、
 些細なきっかけから陽の目を見ることになった。
 これ以前の投稿でも触れた、フランスの哲学者アランの手に掛かる『ラニョーの思い出』。
 ラニョーは、アランの高校時の哲学の教授。
 彼はこの書物の冒頭において、自分の知る唯一の偉人、と恩師を讃えている。

 しかし、それより、今度、私がこの書物から受けた通読への強い追い風は、
 僅か4項目からなる目次の一つが、「スピノザ」であり、
 ラニョーが授業で取り上げる哲学者と言えば、プラトンと彼のみであったという事実。
 この数年、私はスピノザに捕らえられていたところに、
 全くそれとは無縁のつもりの書物にその名を見出したのは、意外を通り越して感動でさえあった。

 しかし、『ラニョーの思い出』は、
 その題名から想像されるような追慕に彩られた抒情的な作ではまるでなく、
 論理的というのとは一線を画するが、
 比喩、隠喩などの修辞法を駆使して綴られた、極めて難解な文章への対峙に倦(う)んで、
 私は、「スピノザ」の章に入る手前――全体の半ばほどのところで一息入れざるを得なくなった。

 そして、たまたま、ネットで見掛けていた『NHK100分de名著 アラン幸福論』を取り寄せることにした。
 難解ながらに、アランに魅かれる所以(ゆえん)を微かであれ確かめておきたい欲求を無視できなかったからだ。
 NHKのその本には、想定通り、アランの人となりやおおよその生涯への言及も盛られており、
 アランへ対する近しさと畏敬の両面が芽生えるとともに、
 『幸福論』からの引用に心揺さぶられた。
  (『100分de名著』に続いて、岩波文庫版の『幸福論』全訳を購入。
   この著作名は、言語からの直訳であれば『幸福のプロポ』となる。
  「プロポ」とは我が国でいう「語録」といった意味で、『幸福論』は、数ページ程度の語録(小品)93篇から成っている。)

 また、『100分de名著』の著者、合田正人の自註に、小林秀雄の評論『アランの事』からの引用も見出せる――
 小林は、アランの愛読者であり、『精神と情熱に関する八十一章』と題した彼の訳書も出している。
 ここにその引用から孫引きすれば、
  「アランの文章は難解です(…)アランの豊かな模糊とした文体を楽しんだ後には、
   まことに透明、一点の雲もなく澄み渡った空の様なものを僕は感じます」と。

 これを目にして、私は、理解できないながら、
 『ラニョーの思い出』に自分が魅かれるのが腑に落ちたようで嬉しくなったものだ。
 確かにそうした空を頭上一杯に見上げる清々しさ、解放感めいているのだ。
 そして、その青空は、スピノザが見出した世界――実体にどこかで繋がっているのではなかろうか。

 アランは、『幸福論』のところどころで、スピノザを取り上げる、
 「よろこびの達人スピノザ」であるとか、あるいは、
 「スピノザがこう言っている。情念をもたない人間などはいないだろうが、
  ただ賢人の場合、その魂のなかで、幸福な思惟が厖大な拡がりをもっているので、
  情念はみんな、まったく片隅に追いやられて小さくなっている」など。

 スピノザの文体は徹頭徹尾ロジカルだが、アランのそれは、
 スピノザの文を文学の鋳型に入れて、その立脚地を損なうことなく焼き直したかのような彼一流の芳香を放つ。
 それらに慰撫され、鼓舞されて、改めて『ラニョーの思い出』のページを繰り、
 少なくも、その第三章に当たる「スピノザ」を読み切ろうと思う。

〈「継続会費納入のお願い」より〉 引用
池見隆雄 2023/6/1(木)14:03:19 No.20230601134350 削除
 今日から6月。どんよりとした空模様。
 遅くとも午後から、雨が降り出すでしょう――一昨日の梅雨入り宣言の証でしょうか。
 10年も以前でしたら、こんな天候のとき、協会に居てもすぐ外で雨蛙が盛んに鳴きました。
 前の公園へ、幼稚園児たちが連れられてきているので、それよりもにぎやかです。

 会報「夏」号をお手元へお届けします。
 本誌の〈事務局日常〉に最近の協会活動や記事につき種々記しましたので、
 こちらへは何を?と戸惑っています。

 今月から、コロナのために数年間閉鎖されていた、
 福岡聖恵(めぐみ)病院の「ヨーガ教室」が再開されることになり、
 協会から指導に出向きます。
 生徒の皆さん、辛抱強く待って下さっていたのです。

 絆はできるだけ途切らせないが良いと思います。
 恐らくそれがこの世に生を享けていることの重要な部分です。

〈よろこびの達人〉 引用
池見隆雄 2023/5/24(水)15:08:51 No.20230524145332 削除
 スピノザの影響も強く受けているフランスの哲学者アラン(1868〜1951)が、
 その著作中に、スピノザの提言として、以下のようなことを書き付けている、

  「情念をもたない人間などはいないだろうが、
   ただ賢人の場合、その魂のなかで、幸福な思惟が厖大な拡がりをもっているので、
   情念はみんな、まったく片隅に追いやられて小さくなっている。」と。

 これはスピノザの意向をアラン自身の表現に直したものだけれど、
 私はとても気に入っている。
 位已光児さんも、このような位置におられる。

 アランはまた別の個所で、スピノザの実践と思索を、「よろこびの達人」と形容する。
 世界の平和は、私たちひとりひとりがこの達人を心掛けてこそ、
 初めて可能になるのだろうと思う。

 最後にもう一つ、アラン流のスピノザを、

  「からだが暖まったからよろこぶのではなく、
   私がよろこんでいるからからだが暖まるのだ」。
                   (引用は岩波文庫より。神谷幹夫訳)

〈心が開けば〉 引用
池見隆雄 2023/5/10(水)14:54:26 No.20230510145039 削除
 鎧戸をいっぱいに開けば
 満天の星が
 目に飛び込んでくる

 心か開けば開くほど
 至福の雲がたなびく

 何があっても大丈夫
 無条件で大丈夫

〈龍をめぐって A?〉 引用
池見隆雄 2023/5/8(月)15:22:34 No.20230508144313 削除
 (「龍をめぐって」を書き了えようと思い立てなくなっている。
  書き出しの動機が希薄であったのかも知れない。
  いやそれより、もしかすると、近頃、
  スピノザ―位已さん―スピノザの影響も受けているフランスの哲学者アラン
  という系列に触発されがちな中で、
  「幸せ」への積極性が増し、というより自らの生へ対して、原因、結果としてでないそれを、
  ほのかながら持続的に味わえているという成り行きのせいの方が優っているのではないか。

  原因、結果としてでない「幸せ」とは、一過性でなく、
  常なるその流れの中に、身を浸しているかのごとき有様をいう。
  ――一般に「脳天気」と形容される状態かもしれないが。

  「龍をめぐって」の続きをいくばくか記してみたので、未練がましいが、以下に、そのまま投稿しようと思う。
  近い休日にまた、八龍神社へ出かけ、あの絵の前に暫し佇むだろう。
  あの龍は、何となく幸せそうだ。)


 原田直次郎作の観音と龍の背後には、
 大火炎に伴う黒煙のごとき凄まじい様相の暗色の雲が立て込めている。
 画面左上隅のみが、現実世界へ通ずるかのように開け、雲へ薄陽が射しかけている
 ――その一隅を欠いているとしたなら、
 この作へ対する私の印象は、畏怖というより恐怖へ傾いていたかもしれない。
 龍の巨大な体躯を支えるがごとく、紅蓮の炎さえ燃え盛っている。

 『絵画の領分』を拾い読みしたところでは、
 原田はドイツへ留学し、彼の地で森鴎外と懇意の中になった。
 その間柄は、原田が36歳で夭折するまで続く。
 帰国後、鴎外の出版物の扉絵や挿絵も描いている。

 しかし、彼の畢生(ひっせい)の作ということになれば、
 当時としては破格の寸法、縦3メートル、横2メートルという『騎龍観音』。
 第3回内国勧業博覧会(「明治23年)に出展されて大評判を取ったという。

 原田作と神社の素人画家のそれと、
 技術や寸法、その他において比ぶべくもないが・・・   (未完)

〈龍をめぐって @〉 引用
池見隆雄 2023/4/12(水)14:45:48 No.20230412143123 削除
 また、「八龍神社」を廻って書く。
 神社拝殿の正面奥の格子戸の向こうに、見透せはしないが、ご神体が祀られている(はず)。
 その上の板壁に、額と一体化した絵が掲げられているが、
 長年月の間に彩色はすっかり剥げ落ち、中央辺に、一匹の龍が上体をもたげていると想われる、
 ほとんどシミ同然の黒ずんでぼやけた輪郭。
 額の右手に、「明治二十一年・・・」という文字が、辛うじて読み取れる。

 このありさまは、私たち一家がこの神社及びその周辺の田野を、
 頻繁に訪れ始めたときから微動だにしていなかった。

 ところが、昨年の晩秋、拝殿内に、思い掛けない目新しさがもたらされた。
 正面の額の両脇にもまた、一回りほど小さな額が掛けられており、
 それらには、氏子の内の長寿者の姓名が麗しい毛筆で書き連ねられていたのだが、
 左手のより古い時代の額に、一幅の油絵が取って代わったのだ。

 コミックの吹き出しを想わせられる多数の現実離れした雲の間から、
 緑系の色合いの龍が、正面の額を模したと思われる姿形を現わしている。
 雲の大方にはコンジキ(金色)が施されているが、
 そのトーンは“金の闇”ともいうべき重苦しさを担っていなくもない。

 画面の右下方に作者の名が、白色でくっきりと記されている。 
 女性。 その名付けの嗜好から推せば、5,60代だろうか?
 決して巧みな筆の運びとは思われず、むしろたどたどしいという方が適切な形容かもしれないが、
 拝殿の板張り床に反射した外光――間接光の薄暗がりにマッチして、
 不思議なほどの存在感を漂わせている。

 神社の案内板によれば、拝殿は江戸時代の建造だったように思うが、
 その経年変化と絵の存在感とが相まって、
 拝殿内が、一種、異空間めいて感受せられるのだ。
 近頃は、参拝後、暫し、その異空間とわが心を共にする――何かしら、清冽な息吹の芽生え。

 初めてその絵が目に止まった日だったか、帰宅後、別のある絵が思い起こされていた。
 それは、私の本棚に、相当の年月、ほぼ手付かずに並んでいる書物の一、
 『絵画の領分』にそのカラー画像が収載されている、
 明治の洋画家、原田直次郎の手になる作、『騎龍観音』。
 ちょうど神社のそれとほぼ同様の態勢の龍の首筋直下を踏みしめて、観音がすっくと立っている
 ――私はその書物を通読こそしていないが、一度ならずページを繰ったことはあり、
 それは恐らく、その画像と作者、原田の肖像写真とが、心に銘記されていたからだ。
                                      (続く)

返信(1)を読む 最新返信日:2023/4/14(金)14:48:38

〈春のエンカウンター・グループへのお誘い〉 引用
池見隆雄 2023/4/12(水)15:20:07 No.20230412151838 削除
「人間関係研究会」と当協会共催の
 春のエンカウンター・グループの参加者枠にまだ数名分の空きがあるので、
 「掲示板」へも案内文を投稿しようと思い立つ。

 ファシリテーターは、村久保雅孝さん(佐賀大学医学部准教授)、
  小松泰子さん(京都府スクールカウンセラー)、そして協会の池見の3名。
 期日は、今月28日(金)〜来月1日(月)の4日間通い。
 会場は、当協会事務局
 ――閑静な住宅街の一画に位置し、すぐ前が公園という、グループ会場としては、割合と恵まれた立地。
 食事は、近隣の飲食店で各自摂って貰うなり、弁当など持参して貰って。

 スケジュール
  1日目   午後4時〜9時
  2,3日目  午前10時〜午後9時
  4日目   午前10時〜正午 (昼・夕食時、それぞれ1時間半の休憩含む)

 参加費
  会員:25,000円  一般:27,000円 (宿泊費・食費含まず)
 問い合わせ・申し込み先
  (日本心身医学協会メールアドレス) psm_group_09@yahoo.co.jp
 
 1995年の秋に初回を開き、今回が54回目。
 今春は、グループ内に、あるいはグループを通して皆の心内に、
 どんな花が咲くことやら・・・。

〈実体を求めて〉 引用
池見隆雄 2023/4/4(火)14:39:00 No.20230404134804 削除
 先月25,26日(土・日)に、愛知県から位已光児さんに来福いただいて、
 2日間の研修会を開く機会を得られた。 
 同ゲストによる研修会はこれで9度目。
 今回のテーマは、〈親鸞聖人の悟り――身心一如の智慧〉。
 テキストはその都度、位已さん自身で書き下ろされる、驚くべき短期間のうちに。

 日本心身医学協会の研修会は、エンカウンター・グループ(EG)の他、
 ゲストを迎える形態でも「語り手EG」と称している。
 つまり、参加者は、受け身的に講話を伺うに終始せず、
 ゲストへ対し大いに疑念や感想を表明し、参加者間の対話・会話も起こり得る。

 そして私はファシリテーターの役割を担うわけだけれども、
 その性格として、自らも、ゲストや他の参加者へ、その時々の気持のありようを伝えることも忘れない。
 というより、そうせざるを得ない気持に添って行く。

 私は9回目に至って、位已さんの研修会における自らの変化に気付くことができた。
 1日目から薄々とその感触へ注意を引かれていたのが、
 2日目に入ってほぼ確信が持てたのだった。

 どういう変化か?
 前回まで、私は、私自身の発言について、それらを位已さんに比べるとき、
 「何とまあ浅薄なのだ」と呆れ、卑下せずにはおれなかった、
 研修会を開けたことには納得が行っていたとしても。
 自らの発言や応答が、従来とは異なって幾ばくか、実体を踏まえている感が持てるとでも言おうか・・・。

 その“実体”ということを譬えで述べてみるとすれば、
 ――今、私が、満天の星を仰げる、どこか山の頂上なり、異国の平原に立っていたとしよう。
 以前の位已さんの研修会に於ける私は、唯だ唯だ、それら夥(おびただ)しい星々を見上げて感嘆する他はなかったのだが、
 今度の変化とは、私自身が、その星の一つとして発言しているかのようだった。

 但し、目に映る星を実体と見なしているつもりはない。
 スピノザは、「神即ち自然」を、「絶対無限の存在者」とも言い換えている
 ――ついでながら、阿弥陀仏もまた、インドの言葉「アミーダ(無限を含意する)」を人格神化したといわれる。
 (因みに、親鸞の、様々な人宛ての書簡を編んだ『末燈抄』より、有名な一節を引用――
    「無上仏と申すは、かたちもなくまします。
     かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり」)

 それを平たく言い換えるなら、絶対とは唯一であり、
 無限とは始めなく終わりなく、境目なく、形のない存在ということになろう。
 また、形がないから何でもあり得るとも。

 この世の、あるいは宇宙のありとあらゆる個物は、
 形のない実体がそれぞれに形を取ったのだとスピノザは言い、位已さんも説かれる
 (思想界では、これらも存在論の一とみて、「一元的汎神論」と括る)。

 星々も形のない実体がその形を取ったのだから有限に違いなく、
 有限なものが実体であるはずがない。
 しかし、その形を取ったのは実体であるから、形は有限でもその存在は実体でないのではない。
 私もまたそういう存在である、星と私との存在のありようは対等である。
                                
 今度の研修を通じて私は、星々との対等性を些か感得できた、
 そういうことにしておきたい。
                                 (終わり)

〈こころ(わたし) と 心(私) A〉 引用
池見隆雄 2023/3/24(金)14:30:09 No.20230324141756 削除
 そして、“精神”ですが、こちらも神の表現に違いなく、
 しかしカタチというものを備えていないが故に、
 始めなく終わりなく、境もないという神(自然)と同様の本性を有しています。
 身体は必ず滅しますが、こちらはそれと無縁なわけです。

 また、先述の“観念”とはイメージのみならず、私たちが普通、“こころ”と思いなしているもの
 ――意識・感情・種々の欲などの座でもあります。
 こちらの“こころ”は常に変化しており、身体とともに雲散霧消するので実体のないものであり、
 それへ対して精神はカタチのない実体であり、それはまた私たちの“心”そのものでもあるのです。
 カタチのない、唯一の実体として“心”(精神)が、観念としての“こころ”をささえているわけです。
 また、この“心”と“こころ”とは、“私”と“わたし”でもあります。

 先に、すべての個物はカタチのない実体の表現と提示しましたが、
 位已光児さんによれば、表現は表現でも、無条件の喜びの表現なのです。
 もし、私自身がここで、以上を踏まえて、私たちが生きる目的、意味とは何かを改めて思案するとすれば、
 “こころ(わたし)”を通して“心(私)”の無条件の喜びを見出すことであろうかと思います。

 実は私たちは、日常においても、折々、そういう瞬間を体験していないわけではないと推測しますが、
 目的となれば、喜びを見出し、一体化することかと。
 そして、それを他者と共有して行く。
 それが限りなく拡大して行けば、「世界平和」も可能になるでしょう。
 いや、それ以外に、真の平和への道はないのではないかと思います。

 位已さんの次の一言は、それを示唆しているでしょう、
 「皆んなそれぞれ違うのに、同じ一つの地球の上に住んでいる」。
 またスピノザは、
 「喜びは徳そのものであって、徳(の実践)の報酬ではない」と。
 この「徳」を「世界平和」と捉えてもまちがいではないと思います。

 以上、甚だ拙い開陳ですが、現在の私の精一杯のところです。
 せめて精一杯を尽くさないと、Kさんの当面の戸惑いに届くまいと――。

         令和4年10月〇日                池見隆雄

〈こころ(わたし) と 心(私)  @〉 引用
池見隆雄 2023/3/23(木)14:24:58 No.20230323141435 削除
K 様

 昨日の「〇〇会」に出席された際のKさんの様子が、会の後も気掛かりとなり、
 次のようなことを思い巡らしましたので、何らのお役にも立ち得ないでしょうが、
 取り敢えずお送りする次第です。

 まず、前提として――
 スピノザは、若い時分に、「神即ち自然」を直覚(確信・得心・会得)したと言われており、
 彼の主著『エチカ』は、それを、論理的に解説しようとの意図から表されたもののようです。
 一般に、思想書・哲学書においては、
 考察を積み重ねた末に、結論に到達するという行き方だと思いますが、
 『エチカ』は、その逆を辿っているともいえるのでしょうか。

 さて、スピノザは、精神(内容)を、
 「(精神は)身体の変状とその観念からなる」と規定しています。
 この“変状”には種々の意味合いが込められると思いますが、
 今は煩雑さを回避するために、
 私たちの五官が外界と接触すること、刺激を受けることに限定しておこうと思います。

 その事態を経て、私たちの内に(脳に)、外界のイメージが形成されることとなります。
 それを“観念”と言って良いでしょう。
 その観念は、現代科学において、実際の外界とは非常に異なっていることが証明されているわけですね、
 いわば、私たちの内界が、外界を歪曲している。
 その筋に添えば、私たちは幻影の内に生きている。

 ここで、方向を転じて、私たちの存在、また外物の全ても、
 スピノザによれば、神=自然から中動態的プロセス(内的原因)によって顕現したとされています
 ――創造されたのでなく顕現、言い換えると、全ての個物は、神の“表現”なのです、
 神は唯一の実体ですから、その表現は、実在ともいえ非実在ともいえます
 ――神=自然ですが、自然=神ではないのです。

 スピノザは、神(自然)を「絶対無限の存在者」とも称しています。
 絶対は比べるもののない唯一ということであり、
 無限は始まりも終わりも、境もない、つまり形がないということです。
 ですから、それは、「カタチのない唯一の実体」と言い換え可能です。
                                (続く)

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