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心 の パ レ ッ ト

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ページ 1 (1〜10)     ホームページ
2019年、、 引用
hikaru 2019/1/11(金)11:28:11 No.20190111112120 削除
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No.1
  今年もよろしくお願いします。

大晦日、出会った積雪で、作ったネコの雪だるまです(クマではありません)。
返信(1)を読む 最新返信日:2019/1/16(水)14:19:10

〈自 信〉 引用
池見 隆雄 2019/1/4(金)14:37:48 No.20190104135737 削除
(この小文は、昨年12月29日中の、自らの心情の再現を試みたもの。)

 今年も、今日を含めて、残すところ3日。
 協会で座卓へ向かっていても、
 常と異なり、周辺の物音は皆無に等しい。
 目の前の公園にも、子供たちの影すら見当たらない、
 寒気が厳しいには違いないが。
 日常は、どこへ、身を潜めたのやら?

 昨日(28日)の書き込みに、
 「(『古事記傳』を読了できるという)確信――自信――“己”という手応えの一要素」
 と記したけれど、
 今日の非日常的気配が、「自信」という言葉の奥行きへと、
 改めて私の思いを運んで行く。

 「自信」――字義通りなら自分への信頼となろうが、
 実際のところ、例えば私という人間の存在は、
 多くの人達、更には自然の事物・現象との、
 災厄をも除外しない無限のニュアンスに亘る、連繋(横の交わり)なしには、
 社会生活を営むことはおろか、生存さえままならない。

 純然たる独力では何事も果たし得ない私が、「自分」というとき、
 その意味内容には多くの――無数の他者との相関が、
 暗々裡に込められていなければならないだろう。

 そこで、私に『古事記傳』を読了できる見通しが立ったとしても、
 「自信」というより、
 他者への、あるいは他者との関係への「感謝」の念の生起するのが
 相応しいのではなかろうか?

 私の持前の才智や意志力を想定してみたところで、
 それらは遺伝その他縦の人間関係に基盤を有するに違いなかろう。

 しかし、他者との縦横の相関のネットワークにおいて、
 あるいは空間的、時間的世界の内において、
 私はやはり、固有の――唯一の存在というべきだ。
 容貌一つ取っても。

 無数の他者と絶対的に区分されるところの自己が、
 何かを遂行し得るということは、
 その者にのみ焦点を当てれば独自であり、
 私が、ほとんど通読した者がないといわれる、『古事記傳』をそうできるならば、
 自信――自力への信頼が、自(おの)ずから頭を擡(もた)げて不思議はない。

 ――そこにおいて、再度、ネットワークへまで視界を広げればどうか?
 全体あっての独自性、また、個々の独自性あっての全体とも言い得るか。
 「自信」とは、
 個々と全体とが呼応する――織りなす、そうした世界内存在への信頼、
 そこに足を踏まえているという実感。

 自惚へ傾斜した「自信」は、
 精神の視野の狭隘、無知故に可能というべきか。

 以上、稚拙ながら、自省を込めて。

〈エネルギー不足〉への書き足し 引用
池見 隆雄 2018/12/28(金)13:19:34 No.20181228130417 削除
 (家内から、「オチがない」と指摘され、
  「題名が〈エネルギー不足〉だから、オチのないのがオチだよ」
  と、咄嗟(とっさ)の思い付きで応じたものの、
  内心、忸怩(じくじ)たるを否み得ず、些か書き加えることに。)

 ついこの間まで、まだ、
 本当に『古事記傳』を自分は読み了えられるのだろうか、
 と疑っていた。
 しかし、さすがにここまで来れば、自ずとそれは、
 確信――自信――「己」という手応えの一要素へ変貌を遂げる。

 とはいえ、明年中に、果たせるかどうか?
 既に5年と9ヶ月余が経過している。

 〈研修へ向けて〉も、只今のエネルギー不足の情況下では、
 結末へ到れるかどうか、些か心許なくさえ思える。
 機の熟するのを、焦らず待とう。

 それを一つの足掛かりとして、
 エンカウンターをテーマに更に何か、何らかの形式で書きたい、
 そういう遊動性の小さくない塊を、内面に抱えている。
 
 
 

〈エネルギー不足〉 引用
池見 隆雄 2018/12/26(水)14:56:25 No.20181226143322 削除
 (hikaruさん、
   クリスマスらしく過ごしたらしいね。
   ケーキのお相伴に預かりたかったところだが。)


 〈研修へ向けてQ〉を欠くには、まだまだエネルギー不足。
 どういう結末になるのか、
 ある程度イメージは浮かんでいるんだけれど。

 今日は年賀状を何十枚か手掛けた、
 尤も宛名やこちらの住所・氏名は、家内がパソコンで打ってくれているので、
 私はそれぞれの方へ、今年頭にいただいた賀状を見返しながら、
 短文を書き入れるのみ。

 それにしても今回は、それらに結構、熱が入った。
 〈研修へ向けて〉へは不足でも、何らか自己表現したい欲求(エネルギー)は現前しており、
 賀状の文のサイズが、それにしっくり合ったというところ――
 ――文字さえ、並年より、幾らかましな姿に見える。

 『古事記傳』は、今朝から、「三十九之巻」に入った――
 ――筑摩書房版の「本居宣長全集」でいえば、四分冊目(最終の巻)の半ば足らず。

 このところ、のっぴきならぬ要件でもない限り、
 毎朝必ず、そのページを開く。
 読了へ向け、第4コーナーを曲がりホームストレッチに差し掛かった感も、
 拍車をかけているか?

 「三十九之巻」は、第十九代、允恭天皇の身の上と事蹟。
 この天皇は病気持ちで、一年あまりも即位を渋っていたらしいが、
 皇后や群臣らの懇請でようやっと。
 第二十代、安康天皇、第二十一代の雄略天皇は、彼の息子。

今宵は 引用
hikaru 2018/12/25(火)17:43:02 No.20181225173800 削除
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No.1
  HAPPY MERRY CHRISTMAS!

むかし、母がしていたように、クリスマスケーキを焼き、
今年は、クリスマスらしいクリスマスを
なんとなく 過ごしました、、

みなさまにとり、明るい新しい年が訪れますように
お祈りいたします。

〈研修へ向けて P〉 引用
池見 隆雄 2018/12/17(月)15:54:01 No.20181217154259 削除
少・青年期、壮年期に到っても、
私の「特攻」への感情移入の程度は、
抜き差しならぬとでもいったところだったように思う。

また、映画などの主人公で、
何らかの事業なり、他者のために献身的に努めながら、
その人自身は、現世的な意味で少しも幸福に恵まれない、
むしろ非業の最期を迎えたりする、そういう人生行路に接すると、
私の胸は張り裂けんばかり一杯になるのだった。

不条理への憤りもあれば、遣り切れなさ、その人物への愛着など
諸々の感情がそこには湛えられているのであるが、
それらを一括するならば、私もまた彼らに劣らず、
この社会で成功しようといった自己本位に染まらない
透明感を伴う生を「生きん」とする意思・衝動
といってもよかっただろうか?

それと、私のファシリテーターへの指向性とは、
必ずしも異質ではないように思う。
こういうと、私という人間は至極“純”な人間と聞こえもしようが、
そうでないことは、むろん、私自身が、肝に銘じて心得ている。

蓮が水底の泥の只中から茎を伸ばして水面に花を咲かせるように、
私は、心の汚泥の重畳たる堆積にこそ根を張っており、
それにまみれつつも水上を目指し、
ファシリテーションの花を咲かせようとするというべきか?

そこでその花を、
姿形において、グループへ滅私的であったり、他者へ献身的であったりし、
本質において、どのような他者の在り方をも己との相異と見て、
価値付けや、好悪の感情に左右されないと、
一先ず定義したいと思う・・・・・・

しかし、私の花は、花となっても、汚泥の臭気からそう免れていない。
つまり、ある種の人に共感しやすく、その逆もまた真となりがち、
ファシリとしての自分の存在感を参加者のフィードバックに求めるとか、
最終的にそのグループがあるまとまりに達し、参加者に良い印象を与えたいなど
欲や無明も少なからず抱え込んでいる。

にも拘らず、“グループ”中のとある瞬間瞬間に、
我欲などから離脱できていることがある、確かにある。
また、そういう時に、普段の我ならぬ他者救済の智慧――着想にも恵まれるのだった。
――それも、「私」にではなく、花の本質に根差しているというべきだろう。
恐らく、そういう瞬間に潤されてきたが故に、
私は更に強く、指向し続けてきたのだと思う。

参加者の一人として加わる場合の“花”もあるけれど、
それよりその立場を担ったときに、試練の風雨にも打たれることによって、
その“花”は、姿形、本質両面において、進展の機会に恵まれやすいと、
私には切に実感されている。

さて、加齢につれて、「特攻」に関連する書物を手に取るといった機会も稀になり、
たとえそうしたとしても、心躍りは曾てと比べものにならない。
映画も合わせてそれらへの感情移入――心の共振は、その振幅を狭めてきたのだろうか?

ある意味では、確かにそうだろうと思われる。
というのが、私の感情移入の形成に、
この世――現実世界からの逃避の願望というものが混入していたと思われ、
そこが、種々の、インパクトを受ける出会い、またグループ経験の累積を経て、
人間関係にまつわる心(とからだ)の奥深さに開眼させられ、
ようやく矯(た)められてきたが故に(逃避傾向について、細かには述べない)。

もう一つ挙げるとすれば、
取り分け少・青年期の「特攻」――特攻隊員への私のイメージといえば、
それこそ“蓮”の花そのものの精神・心情になぞらえられていたわけだけれども、
次第に、そして着実に、
その戦術の無謀さ、悲惨さ、不条理へと私に視界が開けてきたがため。

取り分け、特攻隊員は人でありながら、
軍部は彼らを、一個の弾薬並みの、あるいはそれにも劣る消耗品と見なしていたのだ。
しかし、そういう過酷にして不毛な、あるいは汚泥にまみれた境遇下に置かれながらも、
己の心の方向性(思想)、色合いの感情の変化に妥協なく対峙し、
生死の相関・一如に思いを巡らせ、己を一個の“消耗品”と諦念しつつ、
尚且つその消耗に意義を添えようと努めた隊員たちも少なからず存在した。
その事実は、彼らの手記、日記、書簡などの遺品からも十分窺えることが出来ると思う。

そこで、私が、「特攻」を伝える種々のメディアへ、幾分か冷淡になったとしても、
それは多分、今あげた2つ
――己の未熟さや、組織としての「特攻」への幻滅という辺縁的理由
に拠るものであって、核心部分、つまり、
隊員たちの凝集された生の時間のなかでの求道心ともいうべき姿勢への
感嘆、憧憬、我もまたという感奮などの喚起力は、今日へまで一貫しており、
それと私のファシリテーター指向、別けても一抹の無私性とは、無縁ではない、
と、やはり言えそうに思う。

それにしても、今日、隊員たちの遺書や手記などにさえ積極的に接しようとしないのは、
彼らの生活や内省が顕著な非日常性に立脚しているため、
たとえ私が感奮させられたとしても、
その内へ、現実逃避や、それと腹背を成すところの自己否定が
否応なく忍び入ってきて迷惑を覚えるからであり、
一方に、隊員たちの生きざまはともかく、
若さと時間不足故の思想、理念、心象風景の未完成が、
現在の私に飽き足りなさを覚えさせるのでもあると思う。

このPに一応の区切りをつけるために、先走りして、以下のことを開示しておこう。

「インパクトを受ける出会い」のことを先述したが、
この「インパクト」なる語の含意とは、
――外にも人々が居合わせようと否と、私との間に会話が交わされようと否とに拘わらず、
その人と時間・空間を共有して、
あるいは、その人の謦咳(けいがい)に接していさえすれば、それだけで、
そうしてはならないと強大な力に厳命・威嚇されたかのように、
持てる力を発揮する恐れを始めとする自己否定から解放され、
自分相応の、個有の創造的行為へと伸びやかに発奮させられる。

具体的にそれらの人々を列挙するなら、
あるカソリックの外国人神父(但し、私はクリスチャンでない)、
美術を講ずる大学の一教官、
以前この「掲示板」へその人との交渉を書き込んだことのある、作家の井上光晴氏、
そして、村山先生もまた、そのお一人に他ならない。

                               (続く)

〈研修へ向けて O〉 引用
池見 隆雄 2018/11/26(月)15:22:23 No.20181126135853 削除
 この小文の冒頭に、〇〇協会のF氏の仲立ちによって、
 およそ50年前、村山先生に初の対面が可能になったと記したけれど、
 そのF氏(10年前の2日研修で私の代役としてのファシリテーターを引き受けて貰ったFさんは別人)に
 最後にお会いしたのはいつのことだったか?

 私の父が1999(平成11)年6月に亡くなり、
 その年の10月に、協会主催の追悼の催しを開き、
 5名ほどの方に父の業績(心身医学)、人となりをテーマにスピーチいただいたけれど、
 その立案者は私自身であり、5名の内へF氏に加わっていただくにつき躊躇はなかった。

 私の両親と昵懇の間柄であり、私自身も親しくさせていただいていたので依頼しやすかったし、
 スピーチの巧者と見込んでもいたからだ。
 そのことは会話からも窺われるし、
 実は、私の結婚披露宴でも、そこまでの紆余曲折を絡めて、
 滔滔(とうとう)と祝辞を述べて下さった。

 引き籠り同然の日常を送っていながら、私が結婚を心決めしたとき、
 長崎のF氏宅を訪れ、その善し悪しの判断を仰いだのだった、
 心中、精神的後ろ盾を期待しながら。

 果たしてF氏は、大いに励まして下さり、私は数日、泊めていただいて、
 折しも「長崎くんち」が挙行されていたので、賑わう街中を夫人にご案内いただき、
 その期間中、自邸の庭を公開している(“庭見せ”)富裕な民家で、振舞い酒を呷(あお)ったり。

 披露宴のスピーチに、
 同氏宅を訪ねた私へ、「特攻精神でぶつかれと激励した」との一節が含まれたが、
 その言い回しは事実でなく、
 そのように虚構、あるいは誇大な表現も交じえられはするが、
 張りに富むよく透る音声と相俟って、F氏のスピーチには、
 聴く者の耳をして欹(そばだ)てさずにはおかない構成力と迫真性とが備わっていた。

 それから20年ばかり後、
 協会を足場に私が、エンカウンター・グループ(E・G)に熱を入れているのを看て取られて、
 同氏が専務理事を務められていた、〇〇協会の「カウンセラー養成講座」の一コマで、
 EGを担当するよう要請された――実質、そういう機会を与えて下さったことがある。

 この講座は週に一度、日曜日が当てられていたと思うが、
 午前10時から午後5時と、終日といってよい長丁場。
 午前中に講義、昼休みを挟んで午後が実習という日程が組まれていた。

 F氏からの要請故、お断りするのは気が退け、
 大勢の人前で、どのように自分が振舞えるか試してみたい向こう見ずにも駆られて、
 それでも尚、大いにしくじりの不安を抱えつつお引き受けした。

 午前中は講義、といって、EGの概略はその筋の書物に当たって貰えば察しがつくのではと前置き
 ――気乗りしない概論を回避しておいて、
 大方、EGに出会う前後の自らの経験・変容を語らせて貰った。

 午後の実習は、60名ほどの受講者に6,7名単位の小グループに別れて貰い、
 こちらからテーマを指定せず、“グループ”的な沈黙や、自然発生の会話を味わって貰おうとした。
 私は、各グループを回って、4分の1時間ほど加わるのだった。
 そして最後は、全員で一つの円を組み、受講者からのフィードバック交じりの質疑応答で締め括りとした。

 この講座を担い終えた直後の私は、思いの外、活気づき、充足していた。
 どういう充足か?
 緊張は免れないものの、寧ろそれを逆手にとって、集中力を途切らせずに弁ずることができ、
 小グループを経巡(へめぐ)ったときにも、傾聴とそれに基づくリフレクション
 (発語者の気持ちに添うために、その表現そのままを伝え返したり、こちらの受け止めが不適切でないか確認させて貰ったり)
 の実際を、大仰にならず体現することができるなど、
 自分に可能な限りでEGの意義、潜勢力の片鱗を、
 就中(なかんずく)、私自身の“グループ”への感興を伝えられたという温かな体感に伴われていたし、
 そのことはまた、少なからぬ受講者の、“グループ”理解を求めての熱心な質問やフィードバック、
 また音声や表情からも看て取れるようだった。

 後日、その講座のみならず、上級者対象の研修への出講依頼を、
 最早F氏個人でなく組織の担当者から受けたわけだった。
 しかし私は、結果的に、双方を断ってしまった。
 大学で専門的にEG――グループ力動を研究してもいない実践家の自分に、
 講師は相応しくないとの観念――自己矮小化に打ち負かされて。

 
 以上のところ、閑話休題的に流れてしまったが、
 私がF氏にお会いした最後は、「エンカウンター」の講師を要請されたときではなかっただろうか?
 もし、記憶には留まっていないものの、その後にも接触があったとして、
 挨拶を交わす程度の擦れ違いだったのだろう。
 母から、同氏が施設に入られたらしいと、伝え聞いた覚えがある。
 現在、ご存命ならば、母と同い歳だから95歳。

 F氏は戦時中、戦闘機乗りであり、且つ、特攻隊の生き残り。
 前述した通り、そうでなければ、私は母に、同氏との面談の機会を請うことは、決してなかった筈だ。
 ひいては村山先生の知遇も、エンカウンター・グループとの縁も
 享受できたかどうか。

 すると、自らの手で命を絶たざるを得なかった若き特攻隊員たちが、
 今日までの生存の原動力の、少なくも枢要な一つへ私を導いてくれたと言えなくもない
 ――そう思いたい、自分があるようでもある。
 そして、この今、ある隊員が、整備士に書き残した次の言葉が、脳裏に明滅し始める。

  「…誠心整備された栄光の赤トンボ(特攻作戦に投入された練習機の愛称)を操縦して行きます。
   貴方の未来に祝福を。
   その未来のなかに俺の時間も少しばかり入れてください」 と。
 
                              (続く)

〈研修へ向けて N〉 引用
池見 隆雄 2018/11/19(月)14:28:22 No.20181119132004 削除
 「日赤」を午前中に退院し、
 私は自宅居間の置き炬燵に下半身を埋めて、横になっていた。
 頭痛はまだ私を手放さず、
 鎮痛剤が、病院からの退院土産ということろ。

 午後も遅くなって、固定電話のベルが鳴る。
 家内が受話器を取ると、相手方は村山先生だった。
 私に替わる可不可を先生が尋ねられたらしい。
 家内が振り向いて、「出られる?」と問う。

 時間からして、研修の2日目終了後、掛けて来て下さったのだろう。
 受付、お世話の事務局員へ、私の退院の日取りを多分伝えていて、
 村山先生が私の容態なりを彼女に尋ねられたときに、
 それも伝え聞かれたのだろう。

 研修の様子、成果は少なからず気になっており、
 またそれに加われなかったことが大変悔しくもあったわけだから、
 私は直ぐに、起き上がって行った。
 
 「多少、頭痛がある他は、もうほとんど普通です」
 と私は応答する。
 電話の奥から、参加者方の昂揚した話し声や、哄笑も伝わってくる。

 「Fさん(私の代役を引き受けて貰った)の良きサポートもあって、
  どうやら無事に終了したから、安心して下さい」
 と、いつにも増して快活な声音で告げられる。

 お礼を述べる一方で、
 ファシリテーターの役目を果たせず仕舞いになったのが、
 一入(ひとしお)悔やまれてきた。

 先生は、Fさんへ、電話を替わられる。
 彼女からも、安堵感と達成感とが、こちらへ滲透してきたのではなかったかと思う。
 私はその労をねぎらったのかもしれないが、
 そのときの言葉の絡み具合を少しも記憶していない。

 寧ろ後日、Fさんと顔を合わせたとき、
 私と“グループ”的場を頻回、共有してきたが故に、
 その形態に於ける私の重心の置きどころを汲んで、
 研修2日目も1日目同様の在り方で進めていただくことを、
 結果はどうであれ、先生へ、選択肢として差し出して貰えたかを尋ね、
 そうではなく、その点については、両日とも村山先生にお任せしたと聞くと、
 もし自分が加われていたなら、前年同様、2日目は、
 参加者の方々へフィードバックするという、先生主導の方式で進めることを望まれたとして、
 村山先生のスピーチが進行の鍵には違いないけれど、
 ゲスト、参加者諸共の、巧まざる、個々の内省由来の会話こそが主体の、
 前日の継承を一応は主張させていただいたろうと、
 Fさんへ叱責口調で述べたことを明瞭に記憶している。

 彼女にしてみれば、
 それは随分と理不尽な言い分だと感じられて不思議はない。
 私は彼女に予め、そうした自分の信条の引継ぎを、口頭で依頼したわけでもなく、
 彼女は企業内研修のベテラン指導者ではあっても、
 グループのファシリテーターはほぼ未経験といってもよかったのだから。

 私にはそのとき既に、
 自分の強い口調には、“グループ”的研修の機会を逃した八つ当たりが込められていると、
 後ろめたく自覚されていた。
 しかし、大本には、たとえゲストの村山先生が、私の側の主張を容れられ、
 それによって不自由になられたり、その豊富な経験に基づく目論見を挫(くじ)くことになろうと、
 私がファシリテーターを務めさせていただく、あるいはその研修を協会主催で開かせていただく以上は、
 “グループ”として最も意義深いと思われる在り方への強い傾倒が、
 信条さながら燃え盛っていたのも事実。

 もし、その炎が伏せられ、私の内面が燻(くすぶ)ったままに「語り手EG」の幕が閉じられたとすれば、
 エンカウンター・グループの恩師ともいうべき村山先生へ対して、
 私は「自己一致」しない――己を偽ることになる。
 そして私自身は、ファシリテーターたる者が「自己一致」してこそ、
 グループ全体の心理的安心・安全が保全されると確信していたのだった
 ――その点は、現在も、不動といってよいか。

 Fさんはその後NPO法人を立ち上げられ、その活動に専念されているはずだが、
 もし再会のご縁が得られれば、
 私の理不尽――我がままを、許して貰おうと思う。


 そして、明年1月下旬、10年ぶりに、
 村山先生をゲストに迎えての「語り手EG」を開くことができることになった。
 今度こそは、研修の進行への先生の心積もりをじっくりとお聴きし、
 また妥協でなく私の信条もそれに融和させていただけたらと願う。

 具体的にそれがどういう様相を呈するかは、そのときへの期待としようと思う。
 ――先生は近年、体力への負担を考慮されて、EGから離れておられると風のたよりに聞いていたが、
 思い掛けず、当方からの依頼に、快く応じて下さった。
 文字通り、望外の喜び。

                            (続く)

〈研修へ向けて M〉 引用
池見 隆雄 2018/11/12(月)14:48:02 No.20181112142923 削除
 CTスキャンの撮影後、私は暫時、窮屈な簡易ベッドに放置されていた。
 その間に、束の間の心中のオアシスは消え失せ、
 私は一層の荒野を漂い出していた、
 いわば、私は既に人ではなく、病気という“物”に堕して行くかのようだ。
 私という“物”は、外部からの働きかけへ反応するのみで、
 自らの意思や力をもってしては、些かもこの局面を打開することはできない。

 私の脳を輪切りにした映像を医師たちが検討し合うさざめきが、耳へ達してきた。
 「白く写っているの、これは血液だ」
 「クモ膜下出血だな、まちがいない」

 私に対してそれは、ほぼ死の宣告と響いてきた、
 というのが、その病について例えば、
 某野球選手が練習中に突然意識を失って倒れ、病院へ運ばれたがそのまま死亡、
 死因はクモ膜下出血といった類の、マスコミ報道以上の知識を持ち合わせておらず、
 それイコール死という等式が出来上がっていたのだから。

 私は、ほどなく意識が失われ、二度と回復しないと観念せざるを得なかった。
 恐れの感情が皆無ではなかったが、その感情に費やすほどの時間的ゆとりもない。
 家内は、保険証など携えて、後から車で到着する筈で、傍らには親族も皆無。
 私は、「ありがとう」一つ言い置くことも出来ずに、逝かねばならなかった。

 意識が跡絶えるまで、五官を挙げて、自分の置かれた内外の状況を観察していよう、
 私には、それしか選択の余地がなかった。

 ――私の意識に自己というものが現前する、その現象の源まで遡(さまのぼ)ろうとしたなら、
   五官の働きに行き着いてしまう?
   五官が対象に反応し私たちは感じ、考え、欲し、
   その過程で自己が意識され、あるいは現前し、次いで行動へ駆り立てられる。
   そのことを裏返せば、私たちがその実在を疑わない自己、
   人始め全ての他者と自己との関係において織り成される世界――現実とは、
   五官に基づく虚構に過ぎない?

 そこへ医師の一人が近寄って来たので、
 完璧に抜き差しならない「死」の宣告を回避したくもありながら、
 「助からないのでしょう? 」と問いかけた。

 すると、医師は、声を立てて、笑うではないか。
 「大丈夫ですよ 」。
 ――そんなことが・・・気休めを言っているのでは、と私は訝(いぶか)しんだが、
 更に問い詰める勇気は持ち合わせなかった。

 とにかく、今直ぐ逝ってしまうのではないらしいと微かな安心が生まれると、
 忽ち、“観察”どころか、種々雑多な想念が蠢(うごめ)き出す。
 ――あのこと、このことが気に掛かる。

 やがて家内が駆けつけ、私は、脳外科の観察室へ移送され、
 幾種もの管に繋がれた。

 その翌日か翌々日だったか、主治医が私へ告げるには、
 クモ膜下出血に違いないが、
 動脈が破れているわけでもなく、脳のどこから出血したのが不明だと。
 そして、100人に1人くらいの幸運で、今のところ後遺症も見当たらない、
 また、原因不明だから、
 血液が自然に脳内へ吸収されるのを待つ外、治療の施しようもないと。

 私は、それでも、11日間、入院を余儀なくされた。
 嘔気は3,4日で治ったが、頭痛は、暫時弱まりつつも継続。
 時々、鎮痛剤を貰い、
 静脈がどこか破れていないか念のためにとの理由で、
 詳細は述べないが受ける者にとってとても厄介な、血管造影の検査を受けた。
 あの検査はもう、再度クモ膜下に見舞われたとしても懲りごりだ。

 退院の数日前から、看護師の目を盗んで、
 ベッド上で、ヨーガを再開する。

 「日赤」を退院する日が偶々、
 村山先生の研修の2日目に当たっていた。
                    (続く)

〈研修へ向けて L〉 引用
池見 隆雄 2018/10/31(水)14:28:34 No.20181031132736 削除
(hikaruさんへ
  ある意味とても人間臭いHさんの存在が、
  苦しんでいる人にとって、
  慰安になる場合が多かったと思う。)

 
 11年前と12年前の1月中旬、
 村山先生に、協会の2日研修へゲストとして来ていただいて、
 「語り手エンカウンター・グループ(EG)」を開いた。

 この研修形態は協会固有で、
 村山先生に来ていただく更に10年程前から手掛けたものだけれど、
 先生が、その通称を発案された。
 適確で便利なので、今日も、協会で使用させていただいている。

 どういう形態か簡略に述べるならば、
 ゲストに何らかのテーマでスピーチ願う一方、
 受講(参加)者は、質疑に止まらず、感想や意見をも述べることができ、
 そのテーマに限定されない、ゲストを含めた参加者同士の会話もあり得る。

 それらの兼ね合いが錯雑せず、
 参会者が心理的に安心、安全であるべく、司会者ならぬファシリテーター1名を置く。
 あくまで基底がEGである以上、
 個人のナイーヴな心の襞(ひだ)の吐露されることもあり得るのだから。

 11年前は私がファシを担当し、
 1日目は、参会者からの自由で自発的な発言も幸い多彩に得られ、
 村山先生のスピーチの、巧まざるユーモアを交えた柔軟さと相俟って、
 生気横溢裡に終えることができた。

 2日目、開始前に、1日目を振り返って参会者の各々へ、
 先生からフィードバックされるという方式を提案されたけれど、
 私が1日目同様のあり方に固執したため、
 先生は心理的に不自由になられたようで、
 とともに当然、会全体の言葉(心)の流通も滞りがちとなった。

 2日間というグループとしては短期間に、
 スタッフ、メンバーともども、標準以上の収穫と充足とを得られるようにと、
 長年、先生が培われてきたであろう目算を、
 私が阻害したというべきだろう。

 にも拘らず、翌年の同じ時期に当たって、先生は、
 協会の同形態の研修のゲストを約束して下さった。
 その折にも私自身、ファシを務めるつもりでいたが、
 会期の10日前(また、協会主催の、淡路島で継続的に開かれていた3泊グループの前日)、
 思い掛けず入院する羽目に陥り、断念せざるを得なくなる。



 本筋から逸れるかもしれないが、入院の顛末もここに、書き付けておきたい。

 夕食の最中(寒さ凌ぎの鍋物だったと記憶する)、
 何らの予兆なく、脳の深部から両眼の奥へ、
 間断なく石塊(いしくれ)がぶつけられるかのような異様な感触・痛みが生じてきた。
 当初私は、緑内障の急な悪化かと見当を付けたが、
 やがて嘔気が加わり、断続的に、果てしなく反復される。

 安静にしておれば、ともかく一応は落ち着くのではと、その状態を数時間持ち堪えた末、
 「大病と無縁できた私がまさか」という半信半疑と、プライドの拘束からようやく脱して、
 家内に、救急車を呼んで貰う。

 駆けつけた救急隊員は、私の病像を把握しようと、次々、質問を仕掛けてくる。
 「どこが痛いですか? 」「手足は動きますか? 」等々。
 彼らの遣り取りを通して私は、
 眼病どころかどうやら脳そのものの異変らしいと認めざるを得ない。
 心中に、あてどない荒野が広がり出す。

 と共に、翌日からの3泊グループ始めその他の要件に支障を来しては困るとの執着も、
 自(おの)ずから手放される。

 私の搬送先は、「福岡日赤病院」と定まる。
 そこまで通常の車で、半時間余だろうか。
 疾走する車内での検温は37度台だけれども、血圧は、上が180越えだったのを覚えている。
 
 目的地の救急外来の通路上で、担架の私へ、早くも今度は、複数の医師たちから、
 「大丈夫ですか? 」に始まる質問攻め。
 痛みや嘔気に苦しんではいても、私の意識に一点の曇りもなく、
 それらに淀みなく、適確に対応できる。

 「案外、大したことではないのでは? 」と、
 はかないオアシスの心持が浮かび出る。
 挙句、CTスキャンの造影によって、脳内が試される段となる。

                       (続く)

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