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心 の パ レ ッ ト

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ページ 1 (1〜10)     ホームページ
〈研修へ向けて I〉 引用
池見 隆雄 2018/10/15(月)13:39:55 No.20181015125418 削除
 湯布院の温泉宿を会場とする4泊エンカウンター・グループ(EG)は、
 平成8(1996)年から、6,7年続いたのだったか?
 大体、3つの小グループの同時進行だった。

 それ以前、平成4年春以降、
 私は幾度か自主的に、協会の催しの一環として1泊のグループを計画し、実施。
 平成7年秋には、佐賀県鳥栖(とす)市の「やまびこ山荘」を会場に、
 初の3泊グループに手を付けた。

 そのファシリテーター・スタッフは当初、私単独で務めたが、
 やがて、九重で知り合ったMさんと共にすることになり、
 それは年に春、秋2回、今日まで継続されている、
 会場こそ、福岡県篠栗(ささぐり)の「明治屋旅館」へ移されたが。

 また、そのころ、私の父との縁故で、
 関西のカウンセリングの団体の1泊乃至2泊のグループへ、スタッフを依頼されて出かけており、
 それも毎夏1度7,8年継続されたと思う。

 その関西のグループは、岡山県に属する、瀬戸内の小島内の民宿を会場としていた。
 日生(ひなせ)という小港から、定期船で渡るのだ。
 そこは蜜柑の産地であり、別荘地でもあった。

 そのグループの第1回目、ある男性参加者の第一声に私は慄然となりかけ、
 同時に、新たなコミュニケーションの形式発明の機会に恵まれたと、
 勇み立たざるを得ない。

 当時30代のその人は社会人であったけれども、
 ほとんど常に幻視を体験していた
 ――但し、他者・一般人にとって「幻視」であって、
   その人には現実以上の現実であったと見なすべきと思うが。

 そこで自然の成り行きとして、
 セッション中の彼の発言は、しばしば幻視の披歴に及ぶ。
 しかし、その幻視――イメージは大方おどろおどろしさをこそ帯びているが、
 偏見を手放してよく耳を傾けていると、
 私の“からだ”が、そこにかれの心情が象徴的に顕現していると反応するものだから、
 それに由来する言語によって、
 彼との間に相当コミュニケーションの成り立つのが分かってきた。

 そして私は、彼へ対して、寧ろ親近感さえ抱いているのだった、
 心――精神のより深い領域について語り合える友ともいうべき人物に出会えたと。

 グループの他のメンバーたちも、彼と時と場を共有するうちに、
 彼の人となりの、種々の欲望も隠蔽しないなどの誠実さや、
 他者の心の痛みへの鋭利な共感・援助力に感銘し、
 積極的な好感を示すに到る人がほとんどだった。

 彼は彼自身を苦しめる幻視を語るのみならず、
 他者への救いの手を、これもイメージで提示してくる、
 それが当の相手はいうまでもなく、グループの皆の心を打つのだった。

 とはいえ、幻視の装いで彼へ迫る苦しみの程度は並々ならず、
 しかも日常生活下では孤立無援の境遇故、
 私自身が、悲痛の思いに耐えがたくなり、何度目かに彼とグループを共にしたとき、
 「Hさんが死を選択したとしても、私には止められない。
  その替わり、Hさんがときどき言うように、必ず素粒子になって会いに来てください」
 と反応したことさえあった。

 そのように彼は、関西のそこのみならず、
 スタッフに私が名を連ねる、あるいは私単独のグループへ、度々参加するようになり、
 湯布院へも、確か3度、遠路を出向いてくれたのだった。
                        (続く)

ハートの雲。 引用
hikaru 2018/10/13(土)15:57:46 No.20181013155528 削除
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No.1
  秋の空に浮かんだハート、、に見えますか?
返信(1)を読む 最新返信日:2018/10/13(土)20:37:27

〈研修へ向けて H〉 引用
池見 隆雄 2018/10/4(木)15:16:32 No.20181004150046 削除
 九重の3泊グループから成るワークへの私の最後の参加は、
 確か平成6年の暮れだったと記憶する。
 しかし、私の属するグループを構成していた他の8〜9名の人たち、
 また、2名のファシリテーター・スタッフの氏名も、空白に帰している。
 まして、各セッションの連鎖が、どのような起承転結を呈していったかということは。

 その理由を推測してみるなら、
 他者とのコミュニケーションの題材、
 あるいは、その際の己の表現の形式に新味が少なかったのだろうか?
 それらに以前以後との重複は一度でもあり得ないわけだけれども、
 比較的に似寄っている場合と、逆に斬新な場合とでは、
 当然ながら、後者の方が記憶に刻まれやすく、
 私にとって九重最後のグループ内でのそれらは、
 大半が前者に属していたのだろうか?

 このように述べても不分明の感を与えると思われるので、
 ごく最近の例を一つ。 

 私は、セッションの最中、落語の小話を披露した
 ――その表現様式が、そのときの、感触としての“からだ”からの示唆にピタリと合っていたのだ。
 しかし、何しろ、雑談の席でさえ、そういう経験は皆無。

 セッション中に、皆が笑い転げることも稀でないが、
 基底に、各自の何らかの問題意識という生真面目な線が一本通っているには違いない。
 それに抵触することなく小話を挿入するのはタイミング的に難しく、
 下手をすると皆の不興を買う結果を招かないとも限らず、
 自意識面へは、少なからぬ勇気が強いられる。

 にも拘らず、私は、
 “からだ”のある一つの、曾てなかった感触を、無視することはできない
 ――言い換えれば、エゴ臭を伴わないが故に、そこに全幅の信頼を置いている。

 その試みは幸い、グループ全体の笑いを、喚起し得たのだった、それも、好意的な爆笑。
 但し、小話の語り口が巧みだとか、オチが上等というのでなく、
 それへ取り掛かるまでの私の周章狼狽や、
 オチを口にする寸前に自ら吹き出してしまう私の拙さへ対して。

 そして、
 私に、その人自身の内面へ向かうことが負担になっていると見えたあるメンバーも声を立てて笑い、
 傍らに居て、やはりその人を気遣っていた別のメンバーが、その人の気持ちを確かめたところが、
 「笑えて助かった」と応じてくれ、
 私の心理は、勇気を奮って小話を持ち出せてよかったと、安堵するのだった。
 その後、この表現形態は、別の機会に何度か、変奏されつつ用いられた。

 他に、より深刻な情況といおうか、結果的に感動的な例は幾つもあるけれど、
 それを述べようとすると何やら手柄話めいてくるし、
 プライバシー尊重にも違背するようであるので、ここでは持ち出さない。
 ――「掲示板」に以前、2,3それに近似の例を、例によってデフォルメを施して投稿させて貰ってもいる。

 九重最後のグループへの記憶が空白な理由として、いま一つ思い浮かぶのは、
 私に、ファシリテーター指向が生じていたためではないか?
 曾て一度、その役割を依頼され、相方も定まっていたのだが、
 開催何ヶ月か前にその人が妊娠と判明。
 それに際しての私の、残念というより、未練がましさは、
 その指向性の所在を示して余りあると言えそうだ。

 平成7年の春、「福岡人間関係研究会」のスタッフ・ミーティング(?)において、
 翌年から九重の他、春(3月)ごとに、湯布院で4泊グループが開かれることが決定され、
 そのファシリテータースタッフが、私へも打診された。
 村山先生ご自身から、電話を頂いたと記憶している。

 「私でよければ」と応答した。
 私には、その年の九重EGへの申し込みが、自(おの)ずと控えられたのだった。
                   (続く)

〈研修へ向けて G〉 引用
池見 隆雄 2018/9/26(水)15:10:17 No.20180926135324 削除
 Aさんと、ファシリテーター両者の通じ合いを、私も共有できればよかったのだろうが、
 “からだ”で分かるという認識の土壌を、少しも自分の内に見出すことが出来ず、
 はぐらかされたというか、取り残された気分に沈みかけ、
 腹立ちさえが生じてくる。

 “からだで分かる”とはいわゆる直感のようでもあるが、
 それとはまた類を異にするのか。
 このファシリテーターは、柔道家でもあるので、その修練の過程で、
 身体――“からだ”についての私などには窺い知れない、幅広い体験・洞察を蓄積しているのかなどと、
 自分の到らなさへも思いが馳せられる。

 結局、そのグループの終了まで、
 Aさんが私を分かるとはどういうことなのか分からず仕舞い。
 そこで、例外的に、釈然としない心持のまま九重を後にすることになったわけだが、
 その心持とは、取り組むべき課題に当面させられているという、
 一種の負荷の感覚でもあったのだと思う。

 現に私はその後、
 身体・肉体とはニュアンスの異なる“からだ”――それを別言するならば、内面から触れられる己の身体が、
 次第に意識されるようになり、
 情況に応じて微細に、無限に変化するその感触を、
 取り分けグループ・セッション内でのコミュニケーションの拠り所とするに到り、
 現在もその礎(いしずえ)から、大きくは外れてはいない。

 卑近な例を一つ挙げれば、誰かとの対話に際して、
 ある種の心地悪さが、その“からだ”に芽生えるのを見過ごさないでいたとする、
 やがてそれが、相手がそのとき求めている方向を私の発言が遮っている、
 そういう心理的事態の示唆だとほぼ確信される―― 
 敢えて「ほぼ」という副詞を付したのは、
 その時点ではまだ相手の同意を得られていないというだけの理由から。

 そこで私は、それまでの話の流れを中断して、
 「私が今、あなたへ伝えたことはズレていませんか?」
 と問うたとする。
 そうした場合、私の問いが相手方にしてみれば唐突でもあるわけだから、
 「ええ、ズレています」といった直截的な応答は返ってきにくいが、
 「そうですね・・・」と言葉を濁すとか、曖昧な表情から
 そのことが、相手にとっての事実だと裏付けられる。

 私は、「私の今の言は撤回します」などと前置きをして、
 それ以前の地点から改めて対話にとりかかる。

 “からだ”を拠り所とするコミュニケーションをテーマに詳細に述べたくもあるけれど、
 相当の紙数を費やしてもごく不充分にその一端に触れるに止まるのは明らかなので、
 この小文の主旨に照らしても、別の機会に譲ろうと思う。

 といって一つだけ書き添えたいのは、
 カール・ロジャーズの提唱した、著名な「カウンセリングの三条件」、
 その一つが「自己一致」であるが、近年まで私にとっての自己とは、
 その見えざる宇宙のごとき“からだ”、あるいは、無数の星々のごときその感触であり、
 「自己一致」とはその“からだ”の感触に触れられているという在り方に他ならなかった。
 ――今日、この自己の捉え方は見直しを余儀なくされているけれども、
 グループ内の会話・対話における実効性が、私にとって色褪せることはない。

 
 さて、Aさんとファシリテーターで合一されたところの“からだ”と、
 私が親しんできたそれとは同質のものであるかどうか?
 無縁では無論ないが、前者のそれは直感と呼ぶ方が相応しく一回性で、
 コミュニケーションの術として――ひいては、生き方として、
 ある程度意図的に準拠することは出来難いと思う。

 とまれ、Aさんとの邂逅がなければ、私は、
 “からだ”へ、自分の課題として心を凝らすことはなかったのではないか?
 セッション内の有様呈示に当たって、
 殊更Aさんが想起されたのも故なしとしない。

 それにしても、Aさんが私を「わかる」というとき、
 そこに少しも否定的な含みは感得されなかったのだから(寧ろ絶対肯定か?)、
 “分かり方”に固執することなくそのまま頂いておけば良かったのだと、今更我ながらふがいない
 ――Aさんは私と同世代と見受けられたが、今日只今、彼女が、
 その年頃に馴染(なじ)む、物心両面において恵まれた日々を送ってくれているよう願いたい。


 (今回分を読まれて、哲学者・心理学者、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」を連想される方もあると思うけど、
  “からだ”に準拠し始めた頃、私は、彼の「フォーカシング」、また「体験過程療法」の著書を手に取る機会に恵まれ、
  就中(なかんずく)後者に大いに鼓舞され、啓発され、以来それらは、私の座右の書の一角を占めている。)
                                  (続く)

〈研修へ向けて F〉 引用
池見 隆雄 2018/9/21(金)12:37:51 No.20180921115737 削除
 プライバシーは尊重されねばならないが、
 セッションの内の有様に全く触れないのも不自然なので、
 ある一場面をデフォルメを施して提示してみたい。
 他に幾らも深く心を揺すぶられていながら、
 私は何故か今、これを選んでしまう。

 中国地方から参加の、30代専門職の女性(Aさんとする)。
 私が誰か他の人へ、その人の発言から私に感じられるところを伝えようとして、
 しかも、半ば拒否される具合に、
 私の言、ひいては私という人間が分からないといった風な反応に出喰わして、
 心穏やかでなかったときだったろうか、
 セッション内外での接触が皆無といってよかったAさんが、
 「わたしは、池見さんという人が分かります」と。

 私の心持に救済の小波の立ったのは確かだが、それより戸惑いの方が優る。
 その場が転換しかける、
 つまり先程の人とのコミュニケーションを更に望んでも稔りがなさそうだと私が諦めかけたとき、
 今度は、Aさんが、どのように私を分かってくれているのかへの関心が、
 強く頭を擡(もた)げてくる。
 とうとう、そのことをAさんへ問いかけると、彼女もまたもじもじと戸惑った様だ。

 私は、追い打ちを掛けるも同然に、
 「僕が誰かを分かるとか、誰かに分かって貰えたという場合、
  互いが各々の気持ちを言葉に表す努力を重ねる中で、
  『あっそういうことか』と腑に落ちる、そういう感じなんだけれど、
  Aさんが僕を分かるというのは、そういうのとはまた違う分かり方なのかな?
  Aさんは分かってくれているのかもしれないけれど、
  僕の方としてはAさんを分かったという感じが持てないもんだから、
  分かって貰えているという感じを持てないというか・・・・」

 彼女が狼狽までエスカレートするのが、明らかに看て取れるので、
 私はもうそれ以上踏み出せない。
 とともに、私自身にとって自明と思われていた“分かり方”を超え出たその範疇があり得るのかと、
 心中に不安の霧が漂い始める。

 その後の別のセッションで、グループ内の会話・話題の流れに沿っていると、
 いつの間にか私は改めてAさんへ、従前の問い掛けを反復せざるを得なくなっていた、
 ――Aさんと何とか相互理解に達したい、と。

 しかし、そのとき、Aさんの顔面は紅潮し、
 前にも増して、狼狽ぶりは痛ましいほど。
 私は進みも退きも出来ず、
 Aさん諸共、窮地に追い込まれたかに実感された。

 日頃から寡黙が常態の、私より年嵩の一方のファシリテーターが、
 「Aさんは・・・」と口火を切りかけるので、
 グループ中の目が、彼へ注がれる。
 「Aさんは、池見さんを“からだ”で分かるということですね」

 するとAさんは、きつい縛(いまし)めから解放された安堵感を、
 「そうなんです」と迸(ほとばし)らせ、
 次いで大粒の涙が、幾条もその頬を伝う。

                     (続く)

一杯のコーヒーA 引用
hikaru 2018/9/10(月)16:05:30 No.20180910155346 削除
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No.1
  池見さん、そうです。
台風で、3日間の停電、マンション敷地内の大きな木の枝がたくさん折れ、
道路を走っていると、信号機やミラー標識があっちこっち向いてしまっていて
影響はありました、、

停電した真っ暗な家の中で、過ごす時間は、非日常で、洗濯も手でしたりして、
夜暗くなったら、早く寝てしまっていたのですが、とても疲れが出ました。

土曜日にやっと、一杯のラテにたどり着きました。
すこしだけ、心が和らぎました。

日本中、いつどこで災害が起きてもおかしくない時代に突入してしまったのでは、と
感じて、なんだか安まらない気持ちがあります。
返信(2)を読む 最新返信日:2018/9/12(水)14:08:36

〈研修へ向けて E〉 引用
池見 隆雄 2018/9/10(月)14:34:24 No.20180910132953 削除
   (あれっ、hikaruさん、〈一杯のコーヒーA〉削除したの?
    3日間停電の非日常を、課せられたわけだね。
    大阪に住んでいる三女は、「最悪」とメール寄越したよ。
    添付写真のカフェ・ラテがあまりに美味しそうだったから、
    一昨日、私は、最近は滅多に口にしないコーヒーをドリップして。)


 年毎に私が九重エンカウンター・グループ(EG)に参加しだして何度目か以降、
 参加者を全国から募られるようになり、
 それに伴って、1グループのみから3グループ同時進行へ拡大された
 ――グループの人数は7,8名から10名、そこへファシリテーター・スタッフ2名が入る。

 会場も、「九州地区国立大学共同研修所」から「九(州)大(学)山の家」へ変更されたものの、
 両者間は100メートルと隔たっておらず、
 食事、入浴は、従来通り前者の施設利用。

 「九大山の家」は大正年間に礎が置かれたというから、
 ログハウスといえば聞こえはよいが、目のあたりにすると全体に黒ずみ、
 朽ちかけているかの覚束なさに捕らえられなくもない。
 しかし、積雪に対してそれは妙に映りがよく、
 青春の息の痕(あと)といった趣さえ漂わす。

 暖房といって、各室に対流式の灯油ストーヴが据えられているばかり。
 就寝に当たっても、日中に数段優る厳寒下、火の気を絶やす勇気は誰にもないが、
 しかも不完全燃焼への懸念に煩わされもしない、
 窓といい戸口といい、ふんだんに隙間が設けられているのだから。

 村山先生はオーガナイザーでありつつ、グループ・ファシリテーターも務められたが、
 私が通っていた時期の後半は、
 尚子夫人とご夫婦で組まれる場合が多かったと思う。

 開始前、大広間にスタッフ・参加者全員が集まって、
 オリエンテーションのひと時が持たれるのを通例としたが、
 このとき、先生が、毎回必ず表明されるフレーズがあった。
 四半世紀を経て、うろ覚えながらに再現してみれば、

  「雪が積もれば車も通わず外界と隔絶されるこの場所で、
   日常の煩いから解放されて、他者・自然との関わりを満喫していただきたいと思います。
   それを言い換えれば、ここは、
   一端入り込んだなら脱け出せないアリ地獄のようなところです・・・」。

 そこでどっと笑いが起こる。
 私自身も、何度聞かされていても、腹の底から笑えてしまうのだ。

 “アリ地獄”という逆説的な言い表しから、
 先生ご自身からして、生活の枷から解き放たれて、
 恒例のこのグループを楽しんでおられる、伸びやかな気配が伝わってき、
 私の祝祭気分は一入(ひとしお)煽られるのだった。

 (ケータイの普及始め情報過多の今日では、
  村山先生のこのフレーズが参加者へ対して、嘗てのようなインパクトを及ぼすかどうか疑わしい、
  いや最早、成立しないのかもしれない。
  温暖化で、白銀の世界さえ望み薄になりつつある。)

 オリエンテーション後、参加者は、3つのグループに分かれ、各々のセッション・ルームに落ち着く。
 1日目は事実上、夜のセッションのみ。
 2〜4日目は、午前、午後、夜にそれぞれ1セッション。
 5日目、午前の短縮された1セッションが最終となる。

 各セッションの基本の長さは、途中10〜15分ほどの休憩を挟んで3時間。
 4日目夜のセッションは多少切り詰められて、その後に自由参加の懇親会が設けられた
 ――とはいえ、それ以前2日間の夜のセッション後も、懇親会と大同小異という有様。
 広間のそちこちに陣取って語り合い、飲めや歌へ。

 中には、むしろその時間帯にウェイトを置いているかの人々もおり、
 毎晩午前2時〜3時くらいまで。
 翌日中は、夜に備えて(?)居眠りを決め込む。

 休憩でなくともセッション中、手洗いや喫煙に立つことはおろか、
 居眠ったとて誰からも注意されず、起こされもしない。
 ご当人と切にコミュニケーションを望む他者がいない限り。

 姿勢にも規制は課されないので、
 肘枕や腕枕で過ごす者、やすんでいる者。

                    (続く)

〈研修へ向けて D〉 引用
池見 隆雄 2018/9/5(水)15:57:33 No.20180905141155 削除
 研修所から車道の斜面を半時間足らず辿ると、
 右手奥に「一目山(ひとめやま、俗にいちもくさん)」という標高数百メートルの小山があり、
 私は、冬のEGに参加の都度、2日目か3日目、あるいは双方の昼休みに、
 その頂上を目指すのを怠らない。

 360度に亘って雄大な眺望が開ける。
 雲に接している九重の頂き、
 寝仏とも称される、仏が仰臥しているかに看て取れる、阿蘇の五岳の連なり等々。

 私は、それらを見遙かし、見下したときに、
 必ずといってよいほど、何か叫び出さずにはおられなかった。

 禅宗の方では、祖師の語録などに、「山が歩く」、「橋が流れる」などの、
 常識的には不条理な言い回しを、多々見かけることがある。
 山であれ、何であれ、対象を、
 例えば「山」という言葉、またそこから想起されるイメージの枠組みに込めない
 ということかもしれない。

 ただ山と称されるものらが、私の視界一杯を限って、そこに在る。
 私も、「私」・「人」という枠組みから外れそうになる、
 それどころか、「山」と「私」との区別さえ解消されかけるのかもしれなかった。

 その不慣れな感覚に捉えられ、なお私は「私」たろうと抵抗する
 ――何でもいい、何か大声に叫びたくなる?

 初参加の冬のEG終了後、2日目の12月30日、次女が誕生。
 その翌々年の6月に三女が。
 長女は、次女よりも2年と1ㇳ月前に。
 彼女らが中学、高校生に成長するまで、私はクリスマスに在宅していたことがないわけだ。
 子供らへのプレゼントなどの算段は、家内一人に任せきり。
 家内は、「クリスマス・ウィドウ」と自任していたっけ。

 冬のEGの5日間は、知らず識らずの内に、
 私にとって、年に一度の祝祭期間の様相を呈していた
 ――子供らに、クリスマスがそうであるかのように。
 極論すれば、その期間ある故に、日々の生活を持ち堪えられていたといおうか。

 当然、、各セッション(EGの基幹を成す、自由な語り合いの一コマ)の合間にも、
 己の心身の状態を最良に整えようとの意識が働き、
 身体面で静的なセッションへ対して、一目山登頂を始めひたすら山道を歩き通した
 ――心身の疲労が回復されるのみならず、
   セッション中の誰彼の発言で了解不充分だったところが分明になるなり、
   私の胸中に引きずっている模糊とした思いが適切と思われる表現を得たりするのだった。

 日常の関係には求められないそうした内面の働きに目覚めさせられ、
 そこからの他者との遣り取りが可能になる、
 それこそ、私がEGを、祝祭と見なすゆえの要(かなめ)といってよいだろう。

 歩み寄りの困難さ、不快な経験も皆無では決してないが、
 それらも包含しつつ、私はそこで日を追うごとに、
 己が人間精神として精錬されて行くのを、認識せざるを得なかった。

 JR「博多」駅から、久大線経由、「大分」行きの急行「由布」に乗車し、
 「豊後中村」にて下車。
 グループ参加者と思われる出で立ちの人たちが、降車客の内に目に付く。

 駅前のバス停から、「筋湯温泉」まで約50分。
 更にそこから、温泉街を抜け、多くの場合雪を被った山道を徒歩で経ること20〜30分で、
 研修所に行き着く。

 「豊後中村」に降り立つと早や、
 同じ冬季でも、博多とは体感温度のみならず、大気の透明度が異なる故だろう、
 駅周辺の事物の何もかもが、恐ろしく冴えざえとした輪郭を帯して目に映じてくる。

 身も心も引き締まり、
 寒気に優るとも劣らない澄明な喜びの泉が、秘やかに、胸中を潤して行く。
 ――いよいよ、今冬の祝祭の幕が上がる。

                         (続く)

〈研修へ向けて C〉 引用
池見 隆雄 2018/8/31(金)13:35:44 No.20180831132150 削除
 そこへ、盆を両手にした尚子夫人が出られる。
 夫人の方が、上背があるかもしれないと見えた。
 小卓へ銘々の茶碗を配置されたところで、F氏が持参の包みを夫人へ差し出し、
 「これは洗顔石鹸ですが、益々美しくなっていただきたいと思いまして」と。

 村山先生は微笑まれ、夫人は、
 「アラーッ」と、羞恥めいた情を適度に表される。
 (後年、私は、尚子夫人にも、何かとお世話お掛けすることになる。)

 そのお二人の遣り取り――掛け合いが、
 いかにも世慣れ、洗練されていると私には思え、
 羨望を禁じ得ないほどだった。

 F氏に促されて、私は、“自己開示”を試みるけれども、
 F氏と初対面の時と同様、気持ちばかり先走って、
 断片的な情況説明以上に出ず、焦燥を募らせるばかり。

 その場を顔合わせと心得ておられたろう先生は、
 時折、合槌を打たれるばかりで、
 私の内面へ踏み込むような問い掛けなどは一切されない。

 拙い“開示”を一通り聴き終えられて、
 九大の一室で開かれているという、
 自由な語り合いの月例会(福岡人間関係研究会)へ誘って下さり、それから、
 「今日、時間があれば、一緒にお酒でも飲めるといいんですが」と。

 私は自分の期待が満たされたわけでは少しもなかったけれど、
 先生、F氏と共にお酒を飲むという設定に魅力を禁じ得ない。
 第一私は、第三者――両親とも、とのそういう経験が一度もなかったし、
 一人前の成人扱いされたような嬉しさと、
 未知のその世界への扉の取っ手に、我が手が掛かったかのようなときめきとを覚えていた。
 また、このお二人となら、対話の様を見聞させて貰っているだけでも楽しかろうと。

 一時間ほどで村山先生宅を辞し、
 約10年後に、協会の「(企画)専門委員会」に臨まれた先生に、再会することになる。

 その翌年夏、前述通り、
 「福人研」主催の、4泊5日間のエンカウンター・グループ(EG)に初参加。
 同年12月下旬には、雪深い九重の「国立大学共同研修所」を会場とする、
 同主催のEGへも自主的に参加する。

 その年以降数回は、冬の方はまだ、参加者を全国規模で公募しておられなかったから、1グループのみ。
 私の他は、ファシリテーター・スタッフ2名と、参加者5名。
 38年近くを経ても、私は、その人たちの顔や仕草を、眼前するかの如く思い出せる。

 午前4時頃に、積雪を踏み分けてその施設付属の露天風呂へ出かけ、
 帰るさにはタオルを振り回すと、忽ち棒さながらに凍てついた、
 そういう情景も蘇ってくる。

 (結局、これを皮切りに、冬の九重EGへの参加、連続で16〜17回(年)に及ぶ。
   hikaruさんとの最初の対面も、そこでのこと。
   今日まで長年、「掲示板」上を含めて、時々、近況を交換し合っている。
   それにしても、よくここまで、言葉に表してくれました。
   今後へも、多少、期待してもいいのかな?)

                              (続く)
返信(1)を読む 最新返信日:2018/8/31(金)15:30:33

一杯のコーヒー 引用
hikaru 2018/8/30(木)18:33:44 No.20180830182416 削除
私は、子どもの頃から、ずっと自分の気持ちを、自分の中に押し込めて生きてきました。
私の気持ちを聴いてくれる存在が、まわりに居なかったからだと思います。
きつくなると、ガス抜きのように、ときどきヘラヘラと泣いたりしていました。
すこし、空想して、自分をなんとか保とうとつないできました。
自分の体の中に、いろんな気持ちが地層のように積み重なって溜まっていました。

だから、グループに参加しても、自分の気持ちを声に出して、しゃべり出せるまで、
いつもすごくすごく時間がかかりました。
それを辛抱強く待ってくれた人もいるし、私のような人間は理解しにくいという人も
いたと思います。

もう何十年も昔に参加したグループの話です。
ひとりのファシリテーターは、私のような存在は苦手のように見え、無意識的に
私の存在を無視しているように感じました。
もうひとりのファシリテーターは、そのことや私のことを気にはしてくれたけれど、
もうひとりのファシリテーターに遠慮して、実際に動いてくれることはありませんでした。


うまくそのグループの中に入れないでいると感じていた。自分の中の要所要所を
いくつもはずされたと感じた。
グループの部屋の中にいるのもしんどくなって、外に出ている時間も多かった。
グループの進行はとてもゆっくりだった。
メンバーの中に、私のことを気にしてくれた人もいたけれど、やっぱり私は、
みんなの中に入れていないと感じていた。

最終日の前夜、お酒の席に、やっと顔を出し、メンバーの人たちが楽しんでいる
様子を眺め、一緒に写真を撮ったりもしたけど、やっぱり私は苦しかった。

最終日の朝のセッション開始時、「コーヒーの人?」と聞かれ、私は、
勇気をふりしぼって手を挙げた。
でも、私の前にコーヒーは出てこなかった。
私はその時、確信した。このグループに、私の存在はなかったのだ。
心は混乱に陥った。このグループから、どうやって私は帰り着けるか、、

グループが終了し、皆が別れを言って帰るとき…
私は、メンバーの人に歩み寄って、さようならを言いたいと思ったが、
もう力なくからだは動かなかった。

ひとりで帰る。まず、タクシーが捕まらなかった。やっと隣町のタクシーに
来てもらった。
帰りの電車にはもう間に合わない。空港に行く手段は他にあるか、タクシーの
運転士さんに相談すると、無線で問い合わせてくれ、高速道路上のバス停から
空港に行く高速バスの時間を調べてくれた。
バス停で下ろしてもらい、タクシーは、高速バスが私を乗せるのを見届けてから、
その場を離れてくれた。
飛行機になんとか間に合い、電車に乗り継ぎ… そしたら、なんだか遠く離れた
場所に来てしまい… 乗る電車を間違えたのだ。
また時間をかけて分岐点の駅まで戻り、正しい行き先の電車に乗り換えた。
深夜に、やっとのこと、家までたどり着いた。

これだけの行程を経なければ、あの場所から、自分の場所へ戻れなかったのだと、
理解した。


後になって、このグループにうまく入れなったことを、池見さんに手紙で話すと、
心が痛むと言ってもらった。
たとえグループの進行を一時止めてしまったとしても、だだをこねて、自分の
わがままを言ってもいいんだよ、と教えてもらった。
それは、わたしのためだけではなく、必ず他のメンバーのためにもなるのだから、と。

それまでの私は、そんなことしていいなんて、思ったこともなく、
目からウロコ… 驚きも正直覚えたけど、、そうなんだと。

このグループで経験した痛みは、感触を変えていっているけれど、何十年もそして
これからも、私の中に存在し続ける…



今の私はというと、自己肯定感が前よりだいぶ高くなり、自分の気持ちは、口から
出てくるようになりました。
(おしまい)

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