“独り”を奏でる者としての私の一日は、机へ向かうことから始まる。
机へ向かっての初めの行為は、もうずっと、スピノザの『エチカ』を開くこと。
昨日、その第一節を終了――何回目の終了になるのか覚えていない。
といって何十回という単位まではないが。
その他、夕方までに、三、四種の書物を開く。
『エチカ』に次いでは、國分功一郎さん著、
『スピノザ――読む人の肖像』・『スピノザの方法』・『中動態の世界』のいずれか。
昼食後には、最近、ある方から進呈された、『滝沢克己・朝のことば』へ一項のみ目を通す。
曾て、毎日新聞に連載されたコラムの集成。
1回目は、『論語』から以下の一節を取り上げられてある、
――疏食(そし)を食(くら)い、水を飲み、肱(ひじ)を曲げて之を枕とす。
楽しみまたその中に在り。
不義にして富み且(かつ)貴きは、我に於(おい)て浮雲の如し。
夕暮れ頃には、上野修他編の『スピノザと十九世紀フランス』を。
高価であったけれど、少なくも私にとってこれは良書であり、
読み始めて間もないが、目から鱗という瞬間に何度も遭遇している。
例えば、アランの、高等学校(リセ)の「哲学級」の恩師、ラニョーが、
なぜプラトンとスピノザのみをテキストに用いたのかという思想史的背景など。
読書の合間に、連絡のためのメールや、会報の原稿・小文を記す。
短時間だが、アルトゥール・シュナーベルの独奏(ピアノ)や、ヒルデガルト作品のCDに、
半ば呆然と耳傾ける。
その場にサブ(猫)が居合わせると、
寝入っていても頭を上げ、ピアノ、声楽の音に目を細める。
いつか、曲の中途でプレーヤーを止めたところ、
「フニャ」というような不満気な口吻を漏らしたものだ。
(続く)
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