鈴木大拙氏の著書から、
以下のような、禅の師と弟子との問答を、
ここへ取り出してみたくなった。
恐らく中国の宋の時代のこと。
弟子の一人が、
「仏道とはいかなるものですか?」
それに対する師の応答は、
「お前は誰だ?」
と問いの内容へは全く応じていないかのようだ。
しかし、弟子は、素直――愚直に自分の姓名を名のったものだ。
師は再び、
「お前は、自分が分かっているか?」
弟子は、それは自分のことだから、よく分かっている由応えたそうだ。
――問う者と問われる者の立場が、いつの間にか逆転している。
師は、最後、
払子(ほっす=棒の先端に、熊などの毛を植えた仏具)を取り挙げてみせた。
大拙氏はそれに続けて、
師から「お前は誰だ?」と問われたところで、
弟子にしかるべく応えて欲しかったとのみ記す。
しかるべくとは、どのようにか?
――今度は、私が、私自身に問う番だ。
幸か不幸か、私はこのところ、江戸時代の我が国の禅僧、
盤珪(ばんけい)の語録など禅関連の他の書物へも目を通していた。
そこからたぶんヒントを得て、
師の最初の問いへ対して弟子が、
「我は仏なり」
と応えられればよかったのだろうと思い付いた。
自分が仏ならば、
その一挙一動が仏道の現われに他ならないだろう。
そして次の師の問いも、その方向への問いであり、
払子に到っては、
それは仏具なのだから、「仏」の象徴に他ならない。
もちろん、このような、多分に知的な計らいで、
私の、自分・人・生死についての常識が覆されるわけもない。
にも拘わらず、
どこからともない微風に、心地良く吹かれるのだった。
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