みんなの広場「こころのパレット」

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〈仏のわたし〉 引用
池見 隆雄 2018/6/13(水)14:24:34 No.20180613134932 削除
 鈴木大拙氏の著書から、
 以下のような、禅の師と弟子との問答を、
 ここへ取り出してみたくなった。
 恐らく中国の宋の時代のこと。


   弟子の一人が、
   「仏道とはいかなるものですか?」

   それに対する師の応答は、
   「お前は誰だ?」
   と問いの内容へは全く応じていないかのようだ。
   しかし、弟子は、素直――愚直に自分の姓名を名のったものだ。

   師は再び、
   「お前は、自分が分かっているか?」
   弟子は、それは自分のことだから、よく分かっている由応えたそうだ。
   ――問う者と問われる者の立場が、いつの間にか逆転している。

   師は、最後、
   払子(ほっす=棒の先端に、熊などの毛を植えた仏具)を取り挙げてみせた。


 大拙氏はそれに続けて、
 師から「お前は誰だ?」と問われたところで、
 弟子にしかるべく応えて欲しかったとのみ記す。

 しかるべくとは、どのようにか?
 ――今度は、私が、私自身に問う番だ。

 幸か不幸か、私はこのところ、江戸時代の我が国の禅僧、
 盤珪(ばんけい)の語録など禅関連の他の書物へも目を通していた。
 そこからたぶんヒントを得て、
 師の最初の問いへ対して弟子が、
 「我は仏なり」
 と応えられればよかったのだろうと思い付いた。
 自分が仏ならば、
 その一挙一動が仏道の現われに他ならないだろう。

 そして次の師の問いも、その方向への問いであり、
 払子に到っては、
 それは仏具なのだから、「仏」の象徴に他ならない。

 もちろん、このような、多分に知的な計らいで、
 私の、自分・人・生死についての常識が覆されるわけもない。
 にも拘わらず、
 どこからともない微風に、心地良く吹かれるのだった。

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