みんなの広場「こころのパレット」

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〈 法 語 〉 引用
池見 隆雄 2018/7/4(水)14:00:13 No.20180704133025 削除
 毎月最初の月曜日に、協会事務局内で、「仏教の会(略称)」を開き、
 何らか仏教関連の書物を読みながら、私を含む参会者間で、
 疑問点を考え合わせたり、感想を述べ合ったりと。
 熱が入れば、2時間余の時間が、短く感じられる。

 この数ヶ月は、盤珪禅師(622〜693)の『法語集』が、会話の種。
 一昨夜、開いた数ページの内に、言い回しの面白い一節があった。
 この人の法語を聴きに集まった大衆に交じっていた、
 ある僧侶との質疑応答。

 僧侶が、
 自分は修行なしに悟ることはできないと思うが、と問うと、
 盤珪さんは、
 「迷いあってこその悟りである。
  人は皆、仏に異ならないのであって、一点も迷いなどない。
  となれば、何を悟り出そうとするのか」。

 それへ対して僧が、
 「何も修行しなければ、あほう同然です。
  昔、達磨(だるま)大師始め、多くの禅の先達は、
  悟ることによって仏法の奥義を極められました」 と。

 盤珪さん応える、
 「如来は、あほうのままで、迷いの淵から人を救済する。
  あれやこれや修行することもなく、
  生れ付きのまま(の仏心)を曇らさないのを如来という。
  達磨大師以来、歴代の禅仏教の継承者は、皆、その通りなのである」。

 盤珪さんの法話を聴聞しようと、
 この時代に、毎回1500〜1600人もの、種々の階層の人たちが集結し、
 その中に、
 自己の心とは仏心に他ならない と、目覚めた人が少なくなかったという。

 自力で人生の道を切り開いて行ける人は幸いだと思う。
 自力に行き詰まり、あるいは自力の儚(はかな)さを思い知らされ、
 仏心に目を開かれる人も幸いだと思う。

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