毎月最初の月曜日に、協会事務局内で、「仏教の会(略称)」を開き、
何らか仏教関連の書物を読みながら、私を含む参会者間で、
疑問点を考え合わせたり、感想を述べ合ったりと。
熱が入れば、2時間余の時間が、短く感じられる。
この数ヶ月は、盤珪禅師(622〜693)の『法語集』が、会話の種。
一昨夜、開いた数ページの内に、言い回しの面白い一節があった。
この人の法語を聴きに集まった大衆に交じっていた、
ある僧侶との質疑応答。
僧侶が、
自分は修行なしに悟ることはできないと思うが、と問うと、
盤珪さんは、
「迷いあってこその悟りである。
人は皆、仏に異ならないのであって、一点も迷いなどない。
となれば、何を悟り出そうとするのか」。
それへ対して僧が、
「何も修行しなければ、あほう同然です。
昔、達磨(だるま)大師始め、多くの禅の先達は、
悟ることによって仏法の奥義を極められました」 と。
盤珪さん応える、
「如来は、あほうのままで、迷いの淵から人を救済する。
あれやこれや修行することもなく、
生れ付きのまま(の仏心)を曇らさないのを如来という。
達磨大師以来、歴代の禅仏教の継承者は、皆、その通りなのである」。
盤珪さんの法話を聴聞しようと、
この時代に、毎回1500〜1600人もの、種々の階層の人たちが集結し、
その中に、
自己の心とは仏心に他ならない と、目覚めた人が少なくなかったという。
自力で人生の道を切り開いて行ける人は幸いだと思う。
自力に行き詰まり、あるいは自力の儚(はかな)さを思い知らされ、
仏心に目を開かれる人も幸いだと思う。 |