3匹の仔猫が姿を現したとき、なぜ私が、
仕事も手に付き難いくらい困惑したかを振り返ってみると、
まず、サブの胎内に仔が、それも複数宿っているらしいと看て取れても、
食物を加増してやることはなかったに拘わらず、
どの子も逞しいと形容できるほど活発という事実。
――半野生の生命力の旺盛さに気圧(けお)されるというか。
第2には、その仔らの中にメスが交じっているに違いなく、
彼女または彼女らまで仔を成すとすると、際限がなくなるという不安。
――これも、気圧されるに通ずるか?
第3には、協会の事務局が1階を占める亡父の元の自宅2階と、
その奥に所在する亡父の新たな自宅双方にかけて、
母と生活している私の妹が、清潔ということへ完璧性で、
元来は動物好きであったけれども、その傾向が高じた現在では、
半ノラ猫2匹が敷地内と協会の一角を徘徊しているさえ、
辛うじて我慢のバランスを取っているという有様なのだから、
5匹となればそれが崩壊しかねないのではという危惧、
それに伴って、ガンを担いながらも壮健な日常生活ぶりとはいえ、
今年9月には95歳の私の母の、妹への対応が、手詰まりにもなりかねまいと。
それに加えて、猫の頭数が従来の2倍以上となれば、
彼らに巣喰うノミが、室内にまで出没しないという保証はないだろう。
研修会の折などに、それによって、参加される方に不快・迷惑を掛けることになっては、
本末転倒というか、その責任者として私は面目を保てないではないか。
近隣の住人からの苦情もあり得る。
その敷地内に入り込んで悪戯するとか、排泄するとか。
私は嘗て妹に、猫が居着くようになったのは、
「タカちゃん(私)が餌をやったからやろ」と詰(なじ)られたことがある。
そのときは、猫の1匹や2匹とほぼ無視出来たけれど、
今回は以上のような懸念に直面せざるを得ず、
困惑と共に、妹の言が自責となって蘇ってくる。
そして、この事態をともかくも一応は全部引き受けよう
――出来れば肯定的に一つのチャンスとして、 と着想されたとき、
前述の諸懸念を解消させて行く主体は、私自身以外には決してないと、
それでも尚逡巡しつつ、ようやっと具体的行動へと半歩ないし一歩を踏み出せたのだった。
それら行動の先がけとなるのが、母親のサブの不妊手術。
幸いこれは、病院へ連れて行くまでの一週間足らずの間、
毎朝、キャリーバッグの中で、キャットフードに上質のカツオ節をまぶしたのを
皿に盛って与えることを条件づけることによって、
前日までには、私が抱き上げなくても、自ら入るというところまで漕ぎつけ、
当日は容易に、捕獲という意味のリベンジは、果たされたわけだった。
当面の仕事や楽しみにのみかまけがちな己のエゴの拘束から、
微かでも超脱するチャンス、
あるいは、今日までの生活姿勢へ対するリベンジの一つとしても、
5匹の猫として現れた「いのち」と、恐らく彼らの肉体の寿命まで、
人として現れた私は、生活の一端を共有して行く。
追々、3匹の仔猫たちにも、必要な施術を受けさせる所存であり、
半ノラでも養ってみようという奇特な申し出へは、
譲渡でお応えできると思います。
(終わり)
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