みんなの広場「こころのパレット」

||| ホームページ | タイトル一覧 |||

〈研修へ向けて(仮題)〉 引用
池見 隆雄 2018/8/13(月)14:46:17 No.20180813135846 削除
 村山正治先生(現 九州大学名誉教授・東亜大学教授)に、
 初めて対面したのは、49年乃至50年前。
 それから16〜17年後、先生に、
 創設間もない当協会の「企画専門委員」に名を連ねていただいたのを機縁として、
 構成的エンカウンター・グループ(一泊研修会)を担当してくだっさたとき、
 協会の職員であった私も、メンバーの一人に加えさせていただいた。

 また、その翌年、毎年夏、北九州門司の「めかり山荘」で開かれていた、
 「福岡人間関係研究会(代表 村山先生)」主催の、
 4泊5日の非構成(ベーシック)エンカウンター・グループへ誘っていただいた。

 これら二つ、取り分け後者の経験
 ――日常会話に比べれば遥かに率直で自由な気持ちの表明、
   そしてそれを可能にする、
   スタッフ(ファシリテーター)始めグループ参加者たち相互の共感的受容、
 は、私をして今日までの主たる活動の一つへと指し向けた。

 村山先生との初対面は、
 当時、〇〇カウンセラー協会の枢要な地位におられたF氏の仲介によるもので、
 私自身は、先生の何一つ存じ上げていなかった。
 F氏は先生とも、私の父ともカウンセリングを縁として親しく、
 わが家をしばしば訪れられていたようだ。

 あるとき私は、母から、F氏が特攻隊の生き残りでいらっしゃると伝え聞いた。
 少青年期の私は、かの隊員たちに直かに接したい思いを抑えかね、
 戦後生まれであることを嘆きさえしていたものだ。

 戦時中のそういう事実を知ったのは、
 小学4年のとき祖母に連れられて行った、『あゝ江田島』という映画によってであった。
 広島に属する瀬戸内の島の一つ、江田島には、
 日本が近代化に歩み出した、明治時代以降、
 海軍士官養成機関、「海軍兵学校」が終戦まで存続していた。

 映画はその学校生活を(理想化して)描いたもので、
 私は学生らの勇猛さや友情にいたく胸を打たれ、
 その卒業生の一人が、
 ”人間魚雷”と通称された小型潜水艦で敵艦船に体当たりするラスト近いシーンに到っては、
 呼吸の止まる有様に衝撃を受けた。

 その心理を成人後の表明に移し変えれば、
 ――他者、あるいは母国のために、意図的に我が身を殺せるのか?!
 とでもなるだろうか。
 私にとって最も恐ろしいのは、小学生時においても、
 「死」によって自分が消滅するという事態だった。
 (この後、少なくも30年以上は継続した、「特攻隊」員の真情を求めての遍歴については、
  煩雑になるので割愛。)

 F氏を知る前年あたりから、「対人恐怖」的妄想に支配され始めていた私は、
 極度に外出を控えており、当然、他の場合なら未知の年配者に対面することなど
 苦痛と不快以外の何ものでもなかったのだが、
 このときばかりは、母へ、
 「Fさんにお会いして、戦時の話を聴きたい」と、その取計いを要請した。

                      (続く)


パスワード  (ヘルプ)


    << 戻る