Aさんと、ファシリテーター両者の通じ合いを、私も共有できればよかったのだろうが、
“からだ”で分かるという認識の土壌を、少しも自分の内に見出すことが出来ず、
はぐらかされたというか、取り残された気分に沈みかけ、
腹立ちさえが生じてくる。
“からだで分かる”とはいわゆる直感のようでもあるが、
それとはまた類を異にするのか。
このファシリテーターは、柔道家でもあるので、その修練の過程で、
身体――“からだ”についての私などには窺い知れない、幅広い体験・洞察を蓄積しているのかなどと、
自分の到らなさへも思いが馳せられる。
結局、そのグループの終了まで、
Aさんが私を分かるとはどういうことなのか分からず仕舞い。
そこで、例外的に、釈然としない心持のまま九重を後にすることになったわけだが、
その心持とは、取り組むべき課題に当面させられているという、
一種の負荷の感覚でもあったのだと思う。
現に私はその後、
身体・肉体とはニュアンスの異なる“からだ”――それを別言するならば、内面から触れられる己の身体が、
次第に意識されるようになり、
情況に応じて微細に、無限に変化するその感触を、
取り分けグループ・セッション内でのコミュニケーションの拠り所とするに到り、
現在もその礎(いしずえ)から、大きくは外れてはいない。
卑近な例を一つ挙げれば、誰かとの対話に際して、
ある種の心地悪さが、その“からだ”に芽生えるのを見過ごさないでいたとする、
やがてそれが、相手がそのとき求めている方向を私の発言が遮っている、
そういう心理的事態の示唆だとほぼ確信される――
敢えて「ほぼ」という副詞を付したのは、
その時点ではまだ相手の同意を得られていないというだけの理由から。
そこで私は、それまでの話の流れを中断して、
「私が今、あなたへ伝えたことはズレていませんか?」
と問うたとする。
そうした場合、私の問いが相手方にしてみれば唐突でもあるわけだから、
「ええ、ズレています」といった直截的な応答は返ってきにくいが、
「そうですね・・・」と言葉を濁すとか、曖昧な表情から
そのことが、相手にとっての事実だと裏付けられる。
私は、「私の今の言は撤回します」などと前置きをして、
それ以前の地点から改めて対話にとりかかる。
“からだ”を拠り所とするコミュニケーションをテーマに詳細に述べたくもあるけれど、
相当の紙数を費やしてもごく不充分にその一端に触れるに止まるのは明らかなので、
この小文の主旨に照らしても、別の機会に譲ろうと思う。
といって一つだけ書き添えたいのは、
カール・ロジャーズの提唱した、著名な「カウンセリングの三条件」、
その一つが「自己一致」であるが、近年まで私にとっての自己とは、
その見えざる宇宙のごとき“からだ”、あるいは、無数の星々のごときその感触であり、
「自己一致」とはその“からだ”の感触に触れられているという在り方に他ならなかった。
――今日、この自己の捉え方は見直しを余儀なくされているけれども、
グループ内の会話・対話における実効性が、私にとって色褪せることはない。
さて、Aさんとファシリテーターで合一されたところの“からだ”と、
私が親しんできたそれとは同質のものであるかどうか?
無縁では無論ないが、前者のそれは直感と呼ぶ方が相応しく一回性で、
コミュニケーションの術として――ひいては、生き方として、
ある程度意図的に準拠することは出来難いと思う。
とまれ、Aさんとの邂逅がなければ、私は、
“からだ”へ、自分の課題として心を凝らすことはなかったのではないか?
セッション内の有様呈示に当たって、
殊更Aさんが想起されたのも故なしとしない。
それにしても、Aさんが私を「わかる」というとき、
そこに少しも否定的な含みは感得されなかったのだから(寧ろ絶対肯定か?)、
“分かり方”に固執することなくそのまま頂いておけば良かったのだと、今更我ながらふがいない
――Aさんは私と同世代と見受けられたが、今日只今、彼女が、
その年頃に馴染(なじ)む、物心両面において恵まれた日々を送ってくれているよう願いたい。
(今回分を読まれて、哲学者・心理学者、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」を連想される方もあると思うけど、
“からだ”に準拠し始めた頃、私は、彼の「フォーカシング」、また「体験過程療法」の著書を手に取る機会に恵まれ、
就中(なかんずく)後者に大いに鼓舞され、啓発され、以来それらは、私の座右の書の一角を占めている。)
(続く) |