CTスキャンの撮影後、私は暫時、窮屈な簡易ベッドに放置されていた。
その間に、束の間の心中のオアシスは消え失せ、
私は一層の荒野を漂い出していた、
いわば、私は既に人ではなく、病気という“物”に堕して行くかのようだ。
私という“物”は、外部からの働きかけへ反応するのみで、
自らの意思や力をもってしては、些かもこの局面を打開することはできない。
私の脳を輪切りにした映像を医師たちが検討し合うさざめきが、耳へ達してきた。
「白く写っているの、これは血液だ」
「クモ膜下出血だな、まちがいない」
私に対してそれは、ほぼ死の宣告と響いてきた、
というのが、その病について例えば、
某野球選手が練習中に突然意識を失って倒れ、病院へ運ばれたがそのまま死亡、
死因はクモ膜下出血といった類の、マスコミ報道以上の知識を持ち合わせておらず、
それイコール死という等式が出来上がっていたのだから。
私は、ほどなく意識が失われ、二度と回復しないと観念せざるを得なかった。
恐れの感情が皆無ではなかったが、その感情に費やすほどの時間的ゆとりもない。
家内は、保険証など携えて、後から車で到着する筈で、傍らには親族も皆無。
私は、「ありがとう」一つ言い置くことも出来ずに、逝かねばならなかった。
意識が跡絶えるまで、五官を挙げて、自分の置かれた内外の状況を観察していよう、
私には、それしか選択の余地がなかった。
――私の意識に自己というものが現前する、その現象の源まで遡(さまのぼ)ろうとしたなら、
五官の働きに行き着いてしまう?
五官が対象に反応し私たちは感じ、考え、欲し、
その過程で自己が意識され、あるいは現前し、次いで行動へ駆り立てられる。
そのことを裏返せば、私たちがその実在を疑わない自己、
人始め全ての他者と自己との関係において織り成される世界――現実とは、
五官に基づく虚構に過ぎない?
そこへ医師の一人が近寄って来たので、
完璧に抜き差しならない「死」の宣告を回避したくもありながら、
「助からないのでしょう? 」と問いかけた。
すると、医師は、声を立てて、笑うではないか。
「大丈夫ですよ 」。
――そんなことが・・・気休めを言っているのでは、と私は訝(いぶか)しんだが、
更に問い詰める勇気は持ち合わせなかった。
とにかく、今直ぐ逝ってしまうのではないらしいと微かな安心が生まれると、
忽ち、“観察”どころか、種々雑多な想念が蠢(うごめ)き出す。
――あのこと、このことが気に掛かる。
やがて家内が駆けつけ、私は、脳外科の観察室へ移送され、
幾種もの管に繋がれた。
その翌日か翌々日だったか、主治医が私へ告げるには、
クモ膜下出血に違いないが、
動脈が破れているわけでもなく、脳のどこから出血したのが不明だと。
そして、100人に1人くらいの幸運で、今のところ後遺症も見当たらない、
また、原因不明だから、
血液が自然に脳内へ吸収されるのを待つ外、治療の施しようもないと。
私は、それでも、11日間、入院を余儀なくされた。
嘔気は3,4日で治ったが、頭痛は、暫時弱まりつつも継続。
時々、鎮痛剤を貰い、
静脈がどこか破れていないか念のためにとの理由で、
詳細は述べないが受ける者にとってとても厄介な、血管造影の検査を受けた。
あの検査はもう、再度クモ膜下に見舞われたとしても懲りごりだ。
退院の数日前から、看護師の目を盗んで、
ベッド上で、ヨーガを再開する。
「日赤」を退院する日が偶々、
村山先生の研修の2日目に当たっていた。
(続く) |