みんなの広場「こころのパレット」

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〈研修へ向けて M〉 引用
池見 隆雄 2018/11/12(月)14:48:02 No.20181112142923 削除
 CTスキャンの撮影後、私は暫時、窮屈な簡易ベッドに放置されていた。
 その間に、束の間の心中のオアシスは消え失せ、
 私は一層の荒野を漂い出していた、
 いわば、私は既に人ではなく、病気という“物”に堕して行くかのようだ。
 私という“物”は、外部からの働きかけへ反応するのみで、
 自らの意思や力をもってしては、些かもこの局面を打開することはできない。

 私の脳を輪切りにした映像を医師たちが検討し合うさざめきが、耳へ達してきた。
 「白く写っているの、これは血液だ」
 「クモ膜下出血だな、まちがいない」

 私に対してそれは、ほぼ死の宣告と響いてきた、
 というのが、その病について例えば、
 某野球選手が練習中に突然意識を失って倒れ、病院へ運ばれたがそのまま死亡、
 死因はクモ膜下出血といった類の、マスコミ報道以上の知識を持ち合わせておらず、
 それイコール死という等式が出来上がっていたのだから。

 私は、ほどなく意識が失われ、二度と回復しないと観念せざるを得なかった。
 恐れの感情が皆無ではなかったが、その感情に費やすほどの時間的ゆとりもない。
 家内は、保険証など携えて、後から車で到着する筈で、傍らには親族も皆無。
 私は、「ありがとう」一つ言い置くことも出来ずに、逝かねばならなかった。

 意識が跡絶えるまで、五官を挙げて、自分の置かれた内外の状況を観察していよう、
 私には、それしか選択の余地がなかった。

 ――私の意識に自己というものが現前する、その現象の源まで遡(さまのぼ)ろうとしたなら、
   五官の働きに行き着いてしまう?
   五官が対象に反応し私たちは感じ、考え、欲し、
   その過程で自己が意識され、あるいは現前し、次いで行動へ駆り立てられる。
   そのことを裏返せば、私たちがその実在を疑わない自己、
   人始め全ての他者と自己との関係において織り成される世界――現実とは、
   五官に基づく虚構に過ぎない?

 そこへ医師の一人が近寄って来たので、
 完璧に抜き差しならない「死」の宣告を回避したくもありながら、
 「助からないのでしょう? 」と問いかけた。

 すると、医師は、声を立てて、笑うではないか。
 「大丈夫ですよ 」。
 ――そんなことが・・・気休めを言っているのでは、と私は訝(いぶか)しんだが、
 更に問い詰める勇気は持ち合わせなかった。

 とにかく、今直ぐ逝ってしまうのではないらしいと微かな安心が生まれると、
 忽ち、“観察”どころか、種々雑多な想念が蠢(うごめ)き出す。
 ――あのこと、このことが気に掛かる。

 やがて家内が駆けつけ、私は、脳外科の観察室へ移送され、
 幾種もの管に繋がれた。

 その翌日か翌々日だったか、主治医が私へ告げるには、
 クモ膜下出血に違いないが、
 動脈が破れているわけでもなく、脳のどこから出血したのが不明だと。
 そして、100人に1人くらいの幸運で、今のところ後遺症も見当たらない、
 また、原因不明だから、
 血液が自然に脳内へ吸収されるのを待つ外、治療の施しようもないと。

 私は、それでも、11日間、入院を余儀なくされた。
 嘔気は3,4日で治ったが、頭痛は、暫時弱まりつつも継続。
 時々、鎮痛剤を貰い、
 静脈がどこか破れていないか念のためにとの理由で、
 詳細は述べないが受ける者にとってとても厄介な、血管造影の検査を受けた。
 あの検査はもう、再度クモ膜下に見舞われたとしても懲りごりだ。

 退院の数日前から、看護師の目を盗んで、
 ベッド上で、ヨーガを再開する。

 「日赤」を退院する日が偶々、
 村山先生の研修の2日目に当たっていた。
                    (続く)

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