「日赤」を午前中に退院し、
私は自宅居間の置き炬燵に下半身を埋めて、横になっていた。
頭痛はまだ私を手放さず、
鎮痛剤が、病院からの退院土産ということろ。
午後も遅くなって、固定電話のベルが鳴る。
家内が受話器を取ると、相手方は村山先生だった。
私に替わる可不可を先生が尋ねられたらしい。
家内が振り向いて、「出られる?」と問う。
時間からして、研修の2日目終了後、掛けて来て下さったのだろう。
受付、お世話の事務局員へ、私の退院の日取りを多分伝えていて、
村山先生が私の容態なりを彼女に尋ねられたときに、
それも伝え聞かれたのだろう。
研修の様子、成果は少なからず気になっており、
またそれに加われなかったことが大変悔しくもあったわけだから、
私は直ぐに、起き上がって行った。
「多少、頭痛がある他は、もうほとんど普通です」
と私は応答する。
電話の奥から、参加者方の昂揚した話し声や、哄笑も伝わってくる。
「Fさん(私の代役を引き受けて貰った)の良きサポートもあって、
どうやら無事に終了したから、安心して下さい」
と、いつにも増して快活な声音で告げられる。
お礼を述べる一方で、
ファシリテーターの役目を果たせず仕舞いになったのが、
一入(ひとしお)悔やまれてきた。
先生は、Fさんへ、電話を替わられる。
彼女からも、安堵感と達成感とが、こちらへ滲透してきたのではなかったかと思う。
私はその労をねぎらったのかもしれないが、
そのときの言葉の絡み具合を少しも記憶していない。
寧ろ後日、Fさんと顔を合わせたとき、
私と“グループ”的場を頻回、共有してきたが故に、
その形態に於ける私の重心の置きどころを汲んで、
研修2日目も1日目同様の在り方で進めていただくことを、
結果はどうであれ、先生へ、選択肢として差し出して貰えたかを尋ね、
そうではなく、その点については、両日とも村山先生にお任せしたと聞くと、
もし自分が加われていたなら、前年同様、2日目は、
参加者の方々へフィードバックするという、先生主導の方式で進めることを望まれたとして、
村山先生のスピーチが進行の鍵には違いないけれど、
ゲスト、参加者諸共の、巧まざる、個々の内省由来の会話こそが主体の、
前日の継承を一応は主張させていただいたろうと、
Fさんへ叱責口調で述べたことを明瞭に記憶している。
彼女にしてみれば、
それは随分と理不尽な言い分だと感じられて不思議はない。
私は彼女に予め、そうした自分の信条の引継ぎを、口頭で依頼したわけでもなく、
彼女は企業内研修のベテラン指導者ではあっても、
グループのファシリテーターはほぼ未経験といってもよかったのだから。
私にはそのとき既に、
自分の強い口調には、“グループ”的研修の機会を逃した八つ当たりが込められていると、
後ろめたく自覚されていた。
しかし、大本には、たとえゲストの村山先生が、私の側の主張を容れられ、
それによって不自由になられたり、その豊富な経験に基づく目論見を挫(くじ)くことになろうと、
私がファシリテーターを務めさせていただく、あるいはその研修を協会主催で開かせていただく以上は、
“グループ”として最も意義深いと思われる在り方への強い傾倒が、
信条さながら燃え盛っていたのも事実。
もし、その炎が伏せられ、私の内面が燻(くすぶ)ったままに「語り手EG」の幕が閉じられたとすれば、
エンカウンター・グループの恩師ともいうべき村山先生へ対して、
私は「自己一致」しない――己を偽ることになる。
そして私自身は、ファシリテーターたる者が「自己一致」してこそ、
グループ全体の心理的安心・安全が保全されると確信していたのだった
――その点は、現在も、不動といってよいか。
Fさんはその後NPO法人を立ち上げられ、その活動に専念されているはずだが、
もし再会のご縁が得られれば、
私の理不尽――我がままを、許して貰おうと思う。
そして、明年1月下旬、10年ぶりに、
村山先生をゲストに迎えての「語り手EG」を開くことができることになった。
今度こそは、研修の進行への先生の心積もりをじっくりとお聴きし、
また妥協でなく私の信条もそれに融和させていただけたらと願う。
具体的にそれがどういう様相を呈するかは、そのときへの期待としようと思う。
――先生は近年、体力への負担を考慮されて、EGから離れておられると風のたよりに聞いていたが、
思い掛けず、当方からの依頼に、快く応じて下さった。
文字通り、望外の喜び。
(続く) |