この小文の冒頭に、〇〇協会のF氏の仲立ちによって、
およそ50年前、村山先生に初の対面が可能になったと記したけれど、
そのF氏(10年前の2日研修で私の代役としてのファシリテーターを引き受けて貰ったFさんは別人)に
最後にお会いしたのはいつのことだったか?
私の父が1999(平成11)年6月に亡くなり、
その年の10月に、協会主催の追悼の催しを開き、
5名ほどの方に父の業績(心身医学)、人となりをテーマにスピーチいただいたけれど、
その立案者は私自身であり、5名の内へF氏に加わっていただくにつき躊躇はなかった。
私の両親と昵懇の間柄であり、私自身も親しくさせていただいていたので依頼しやすかったし、
スピーチの巧者と見込んでもいたからだ。
そのことは会話からも窺われるし、
実は、私の結婚披露宴でも、そこまでの紆余曲折を絡めて、
滔滔(とうとう)と祝辞を述べて下さった。
引き籠り同然の日常を送っていながら、私が結婚を心決めしたとき、
長崎のF氏宅を訪れ、その善し悪しの判断を仰いだのだった、
心中、精神的後ろ盾を期待しながら。
果たしてF氏は、大いに励まして下さり、私は数日、泊めていただいて、
折しも「長崎くんち」が挙行されていたので、賑わう街中を夫人にご案内いただき、
その期間中、自邸の庭を公開している(“庭見せ”)富裕な民家で、振舞い酒を呷(あお)ったり。
披露宴のスピーチに、
同氏宅を訪ねた私へ、「特攻精神でぶつかれと激励した」との一節が含まれたが、
その言い回しは事実でなく、
そのように虚構、あるいは誇大な表現も交じえられはするが、
張りに富むよく透る音声と相俟って、F氏のスピーチには、
聴く者の耳をして欹(そばだ)てさずにはおかない構成力と迫真性とが備わっていた。
それから20年ばかり後、
協会を足場に私が、エンカウンター・グループ(E・G)に熱を入れているのを看て取られて、
同氏が専務理事を務められていた、〇〇協会の「カウンセラー養成講座」の一コマで、
EGを担当するよう要請された――実質、そういう機会を与えて下さったことがある。
この講座は週に一度、日曜日が当てられていたと思うが、
午前10時から午後5時と、終日といってよい長丁場。
午前中に講義、昼休みを挟んで午後が実習という日程が組まれていた。
F氏からの要請故、お断りするのは気が退け、
大勢の人前で、どのように自分が振舞えるか試してみたい向こう見ずにも駆られて、
それでも尚、大いにしくじりの不安を抱えつつお引き受けした。
午前中は講義、といって、EGの概略はその筋の書物に当たって貰えば察しがつくのではと前置き
――気乗りしない概論を回避しておいて、
大方、EGに出会う前後の自らの経験・変容を語らせて貰った。
午後の実習は、60名ほどの受講者に6,7名単位の小グループに別れて貰い、
こちらからテーマを指定せず、“グループ”的な沈黙や、自然発生の会話を味わって貰おうとした。
私は、各グループを回って、4分の1時間ほど加わるのだった。
そして最後は、全員で一つの円を組み、受講者からのフィードバック交じりの質疑応答で締め括りとした。
この講座を担い終えた直後の私は、思いの外、活気づき、充足していた。
どういう充足か?
緊張は免れないものの、寧ろそれを逆手にとって、集中力を途切らせずに弁ずることができ、
小グループを経巡(へめぐ)ったときにも、傾聴とそれに基づくリフレクション
(発語者の気持ちに添うために、その表現そのままを伝え返したり、こちらの受け止めが不適切でないか確認させて貰ったり)
の実際を、大仰にならず体現することができるなど、
自分に可能な限りでEGの意義、潜勢力の片鱗を、
就中(なかんずく)、私自身の“グループ”への感興を伝えられたという温かな体感に伴われていたし、
そのことはまた、少なからぬ受講者の、“グループ”理解を求めての熱心な質問やフィードバック、
また音声や表情からも看て取れるようだった。
後日、その講座のみならず、上級者対象の研修への出講依頼を、
最早F氏個人でなく組織の担当者から受けたわけだった。
しかし私は、結果的に、双方を断ってしまった。
大学で専門的にEG――グループ力動を研究してもいない実践家の自分に、
講師は相応しくないとの観念――自己矮小化に打ち負かされて。
以上のところ、閑話休題的に流れてしまったが、
私がF氏にお会いした最後は、「エンカウンター」の講師を要請されたときではなかっただろうか?
もし、記憶には留まっていないものの、その後にも接触があったとして、
挨拶を交わす程度の擦れ違いだったのだろう。
母から、同氏が施設に入られたらしいと、伝え聞いた覚えがある。
現在、ご存命ならば、母と同い歳だから95歳。
F氏は戦時中、戦闘機乗りであり、且つ、特攻隊の生き残り。
前述した通り、そうでなければ、私は母に、同氏との面談の機会を請うことは、決してなかった筈だ。
ひいては村山先生の知遇も、エンカウンター・グループとの縁も
享受できたかどうか。
すると、自らの手で命を絶たざるを得なかった若き特攻隊員たちが、
今日までの生存の原動力の、少なくも枢要な一つへ私を導いてくれたと言えなくもない
――そう思いたい、自分があるようでもある。
そして、この今、ある隊員が、整備士に書き残した次の言葉が、脳裏に明滅し始める。
「…誠心整備された栄光の赤トンボ(特攻作戦に投入された練習機の愛称)を操縦して行きます。
貴方の未来に祝福を。
その未来のなかに俺の時間も少しばかり入れてください」 と。
(続く)
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