みんなの広場「こころのパレット」

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〈自 信〉 引用
池見 隆雄 2019/1/4(金)14:37:48 No.20190104135737 削除
(この小文は、昨年12月29日中の、自らの心情の再現を試みたもの。)

 今年も、今日を含めて、残すところ3日。
 協会で座卓へ向かっていても、
 常と異なり、周辺の物音は皆無に等しい。
 目の前の公園にも、子供たちの影すら見当たらない、
 寒気が厳しいには違いないが。
 日常は、どこへ、身を潜めたのやら?

 昨日(28日)の書き込みに、
 「(『古事記傳』を読了できるという)確信――自信――“己”という手応えの一要素」
 と記したけれど、
 今日の非日常的気配が、「自信」という言葉の奥行きへと、
 改めて私の思いを運んで行く。

 「自信」――字義通りなら自分への信頼となろうが、
 実際のところ、例えば私という人間の存在は、
 多くの人達、更には自然の事物・現象との、
 災厄をも除外しない無限のニュアンスに亘る、連繋(横の交わり)なしには、
 社会生活を営むことはおろか、生存さえままならない。

 純然たる独力では何事も果たし得ない私が、「自分」というとき、
 その意味内容には多くの――無数の他者との相関が、
 暗々裡に込められていなければならないだろう。

 そこで、私に『古事記傳』を読了できる見通しが立ったとしても、
 「自信」というより、
 他者への、あるいは他者との関係への「感謝」の念の生起するのが
 相応しいのではなかろうか?

 私の持前の才智や意志力を想定してみたところで、
 それらは遺伝その他縦の人間関係に基盤を有するに違いなかろう。

 しかし、他者との縦横の相関のネットワークにおいて、
 あるいは空間的、時間的世界の内において、
 私はやはり、固有の――唯一の存在というべきだ。
 容貌一つ取っても。

 無数の他者と絶対的に区分されるところの自己が、
 何かを遂行し得るということは、
 その者にのみ焦点を当てれば独自であり、
 私が、ほとんど通読した者がないといわれる、『古事記傳』をそうできるならば、
 自信――自力への信頼が、自(おの)ずから頭を擡(もた)げて不思議はない。

 ――そこにおいて、再度、ネットワークへまで視界を広げればどうか?
 全体あっての独自性、また、個々の独自性あっての全体とも言い得るか。
 「自信」とは、
 個々と全体とが呼応する――織りなす、そうした世界内存在への信頼、
 そこに足を踏まえているという実感。

 自惚へ傾斜した「自信」は、
 精神の視野の狭隘、無知故に可能というべきか。

 以上、稚拙ながら、自省を込めて。

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