(この小文は、昨年12月29日中の、自らの心情の再現を試みたもの。)
今年も、今日を含めて、残すところ3日。
協会で座卓へ向かっていても、
常と異なり、周辺の物音は皆無に等しい。
目の前の公園にも、子供たちの影すら見当たらない、
寒気が厳しいには違いないが。
日常は、どこへ、身を潜めたのやら?
昨日(28日)の書き込みに、
「(『古事記傳』を読了できるという)確信――自信――“己”という手応えの一要素」
と記したけれど、
今日の非日常的気配が、「自信」という言葉の奥行きへと、
改めて私の思いを運んで行く。
「自信」――字義通りなら自分への信頼となろうが、
実際のところ、例えば私という人間の存在は、
多くの人達、更には自然の事物・現象との、
災厄をも除外しない無限のニュアンスに亘る、連繋(横の交わり)なしには、
社会生活を営むことはおろか、生存さえままならない。
純然たる独力では何事も果たし得ない私が、「自分」というとき、
その意味内容には多くの――無数の他者との相関が、
暗々裡に込められていなければならないだろう。
そこで、私に『古事記傳』を読了できる見通しが立ったとしても、
「自信」というより、
他者への、あるいは他者との関係への「感謝」の念の生起するのが
相応しいのではなかろうか?
私の持前の才智や意志力を想定してみたところで、
それらは遺伝その他縦の人間関係に基盤を有するに違いなかろう。
しかし、他者との縦横の相関のネットワークにおいて、
あるいは空間的、時間的世界の内において、
私はやはり、固有の――唯一の存在というべきだ。
容貌一つ取っても。
無数の他者と絶対的に区分されるところの自己が、
何かを遂行し得るということは、
その者にのみ焦点を当てれば独自であり、
私が、ほとんど通読した者がないといわれる、『古事記傳』をそうできるならば、
自信――自力への信頼が、自(おの)ずから頭を擡(もた)げて不思議はない。
――そこにおいて、再度、ネットワークへまで視界を広げればどうか?
全体あっての独自性、また、個々の独自性あっての全体とも言い得るか。
「自信」とは、
個々と全体とが呼応する――織りなす、そうした世界内存在への信頼、
そこに足を踏まえているという実感。
自惚へ傾斜した「自信」は、
精神の視野の狭隘、無知故に可能というべきか。
以上、稚拙ながら、自省を込めて。
|