みんなの広場「こころのパレット」

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〈研修へ向けて Q〉 引用
池見 隆雄 2019/1/25(金)13:20:38 No.20190125125439 削除
 私も加わっているエンカウンター・グループの最中、
 ある参加者が己の課題(もつれた人間関係など)の克服、せめて軽減の糸口をと、
 発話に努めたりするけれど、その他の参加者たちはそれへ、何とも応答できない、
 多少とも自分のこととして、共感的に聴くこともでき難い、
 といった場面に遭遇して、
 私自身もまた無力感に苛まれたり、ファシリテーターという立場が不必要に意識されて、
 何とか応答してあげねばと力み焦るわけだが、
 やがてそういう自分本位のジタバタも大方諦め、
 自分の身体内感覚というか――そういうものとして触知されるところの、自分の内面
 ――心持へ意識を向ける他に仕様がなくなる。

 但し、「心持」とはいうものの、始めから言葉として意識されるそれらとは異なって、
 雲のように掴みどころ無く、
 そして感情的に形容するなら、
 絶えず快と不快が微妙に交錯する、一種の運動体、あるいは生き物に譬えられようか。

 ともかくも、そうせざるを得ない――そうなり終わるのは、
 前述したように、過去の同様の場面で、
 雲まがいの内面の感触へ、集中的にというより寧ろ脱力して、何となく持続的に意識を向ける内に、
 その絶えざる快・不快などの感触の転変につれて、ある言葉がそこから湧くように――
 より現実めかして言おうなら、
 取り分け特徴的な、一瞬ハッとさせられる変化と、脳の言語中枢とが、
 あたかも協働するかのように言葉が得られ、
 それが、他者(当の相手)の苦境へなにがしかの糧となるという味わいを重ねてきたが故に。

 しかし、ことがそう運ぶには、基本的前提条件があるように思う。
 それがどういう具合かに、否定面――そう運ばない側からアプローチしてみれば。

 私が、グループ構成員の誰かと対話を試みようとして――
 そのきっかけも、ある発言が、私の内面に“ひっかかり”の感触を残していたりするからであるのだが、
 ふとその互いのありように疑念を覚える、
 あるいは、このままでは対話が成り立たないとの見通し――落胆が胸に迫る。
 とともに、内的運動へブレーキがかかり、私は口を噤むか、
 「何となく、これ以上、話を続けられない気がして・・・」
 などと、隠し立てのないところを表明して、
 この気持ちの立て直しを図らざるを得ない。

 そういう場合の相手の一例を、イメージ化してみれば、
 その全身をすっぽり覆ってしまう壁が、こちらとの間に立ちはだかっており、
 その壁に穿たれた二つの小さな穴から辛うじて、
 あくまで外向きの相手の両眼のみを窺うことができる。

 つまり、その人は、自分の内面を些かでも察知されまいと、頑なに構えている、
 あるいは私始め他者へ、心を開くべく安心できていないといって良いだろう。

 ここから憶測される、先の前提条件とは、
 相手との間に、ある質の関係性――相手の側に立つなら、
 少なくも安心・安全の芽生えが、生じていなくてはならず、
 それのみならず、グループ全体の相互関係が、ある程度以上、安定している
 ――“安心・安全”の心持が共有されている必要がある。

 そこで、多くの場合、グループの初期から半ばへかけては、
 そういう共有の心持の醸成が、スタッフによって
 自(おの)ずから、あるいは半ば意図的に試みられることになる。

 “安心・安全”について付言すれば、
 グループ進行中、その構成員(参加者及びスタッフ)は、誰であれ、
 沈黙していようと言表していようと、そのままが、
 少なくともスタッフ始め他の構成員に拒否されることがない。
 また、ファシリテーター・スタッフは、上位からその場を牽引することなく、
 能う限り参加者個々が、マイペースを維持し得る。
 発言のタイミングにも、殊更な制約は課されない。

 (尚、この小文で取り上げてきた“グループ”とは、
  一般に、「非構成のエンカウンター・グループ」、
  また「ベーシック・エンカウンター・グループ」と称され、
  予めテーマが設定されることなく、
  あくまで構成員の自発的発言、問題提起を発端として、互いの意思疎通が図られる。
  その際、
  当面している困難な人間関係・自分の内面をいかに汲み取り、それをいかに表すかなど、
  個人としての自己を圧殺することなく、
  他者共々社会人としてどう生きるかが話題となり、模索され合う頻度が高い。
  その他、自己とは、生死とはといった、人間存在の根源的課題の持ち出される場合も。)

 しかし、以上は、いわば、見かけ上の“安心・安全”の様相の一端であって、
 私の考え、体験に基づけば、
 先ずはファシリテーターが、その場において瞬間ごとに生じるところの彼自身の身体内感覚に添って言動する、
 不快(窮屈・緊張など)から快(和やかさ、充実、意欲など)への移行・転化、
 更には彼の心理的“自由”度の上昇を目安として。

 そして、彼の内的変容は、
 波紋さながら、構成員各々に、必ずしも自覚されることなく共有され、
 その見えざる有様こそ、文字通りの“安心・安全”に価すると思う。

 ファシリテーターの自由への変容は、
 彼一人のみに帰属するのでなく、他者――全体へも及ぶ故に、
 いわゆる我儘とは全く質を異にする。
 つまり彼は、上位者(リーダー)でなく、
 そうした有様顕現の鍵を握る存在(キーパーソン)というべきが正当だろう。
              (続く)

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