みんなの広場「こころのパレット」

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〈研修へ向けて R〉 引用
池見 隆雄 2019/2/20(水)15:25:01 No.20190220150935 削除
(hikaruさん

 こちらでも、昨日午後から、不意に春めいて。
 それでも、猫のチビは、灯油ストーブの真ん前に陣取っているよ。

 季節感を添えた、見るからに美味しそうなドーナツを、
 コーヒーとともに味わったんだね。

 やがて外界にも、hikatuさんの内界にも、
 桜が綻び出すのだろう。)



さて、内面の感触からの言葉の生成という事態について、
長年、奇異の感を覚えずにいられなかったのは、
日常、あるいはグループ内においても、
私が私自身の問題のために困惑や苦境に陥っていたとして、
そこからの浮上の手掛かりすら、決してそのようには得られないということ。

幾らジタバタを放擲(ほうてき)し、内側へ意識を指向させようと、
そこに大雑把な感触、また微細な運動の兆しは無きにしもあらずながら、
それらは言葉への結晶を促すほどの求心性、潜在力を帯びてはいない。

先の生成という事態は、
主にグループ中、他者とのコミュニケーションに絡んで、
私から他者への方向のみ。
尤もそのとき、私自身もまた、形容し難い内面の温もりや、
己が存在の意味へと開かれた観を呈する、超常的な落ち着きに見舞われるのであるが。

ところが、昨秋の3泊グループ期間中、
一まとまりの言葉が、紛れもなく私自身へ向かって、滾(たぎ)り立ってくるという、
曾てない体験に遭遇することになった。

そのグループ後、まだ精々4ヶ月。
個々の参加者のプライヴェートな領域に踏み込みがちでもあるグループの性格上
その不文律に照らすなら、
具体的場面へ言及するのは時期尚早のためらいを無しとしないが、
私自らの身に起こったことであるから、
ここへ持ち出すのも、参加者の方々に、大目に見て貰えるかと思う――

その発端となったのは特定のある方との対話であり、
別してその方のご寛恕を請う次第であるが、
有体(ありてい)に言はば、仮令(たとえ)その方が多少の抵抗を覚えられようと、
このことを私は、今ここで、表出せずにはおれない気持ちだ。


この一年ほどの間のグループの都度というのでないが、
そのときどきの参加者の誰彼へ、
「生まれてきて良かったですね」の一言を掛けるということが、私には、重なっていた。
それも無論、内面の感覚に拠り所を持つには違いないのだが、
伝達への切迫感は稀薄で、いうならば、そのとき、
それ以外のどんな働き掛けも、当の相手へ対して思い浮かばないが故という、
消極的な意味合いを帯びている。

それを更に敷衍(ふえん)すれば、
その言葉以上の働き掛けに至れないと私自身は納得しつつ、
仮令伝えたところで、相手方の腑に落ちる筈もないとの見通し――諦念も、
合わせ抱いているということか?

大体、その一言の語句内容にしてからが、
その方が提示されている、具体的で且つ難解極まりない課題へ対して、
視点転換を仄めかすという意味で、あまりに漠然との心証を与えかねまい。

昨秋のグループ3日目の午後のセッション(2時〜5時)の最中にも、
私は、同様の発言に及んだのだ。
果たして相手方から、怪訝というより、不本意とも受け取れる口吻の、
「それ、何? 」との問い返し。

その人の心のどこかへ、微かにでも滲みてくれればとの願いも皆無でなかったので、
些かの落胆と、「それも当然」との心持とが交錯する。

とそのとき、思わず識らず、己の喉奥から、
「ひとにはそう言えても、私自身へは言えないんですよね」
との述懐が滑り出た。 間髪を入れず、
「え? どうしてですか? 」
と再び、今度は前のめりに問い返される。
私のその言が、なにがしかの真実味の衣を纏(まと)っていたのか?
そう問われた以上、半ば義務的にでも、内省せざるを得ない。

従って、分析的にあれこれと知性のみ働かせており、
「意識できる範囲の私の心の領域に、抜き差しならぬ自己否定が蟠(わだかま)っていて、
 それが、他の、あるいはより深い領域からの、そういった肯定的な思いの湧き上がりを、
 重しのように抑え込んでいるのかな・・・」
などと取り敢えず言葉を並べたが、
それらが私から遠くに響く塩梅(あんばい)で嫌気が差す。

そして、その私の感受を、問うた人へ隠さず表明して、
なんとか受動的な内省の拘束から免れようと図るや、
肺底あたりへ思い掛けなく、
上昇気配――言語化を私に迫って止まない、深甚(しんじん)なエネルギーを蔵した、運動の身体感覚が
孕まれるではないか。

それが触知されて数瞬後、
「今なら言えそうです」と、上昇気配を懸命に制しつつ相手方へ。
次いでグループの他の皆へ向かって、
「私自身へ、『生まれてきて良かったね』と言ってもよいですか? 」と。

問いの形式を取ってはいるものの、実のところ宣言に他ならない。
誰も承諾の素振りを見せたわけでもなく、といって、迷惑の気配が醸されたわけでもない。
内的運動は私の口を衝(つ)いて迸(ほとばし)り出、
辛うじて、それに切れぎれに、
「生まれてきて良かったね」の一音一音が貼り付く有様。

その直後の私の自覚の程をイメージ化すれば、
長い年月、私の内面の暗黒のスペースに幽閉されていた、牛相当の矮小ではない生き物が、
一隅にようやっと微かな光の隙間の生じたのを幸い、
あらん限りの情熱でそれ目掛けて跳ね出して行った。

他者へ向かって、身体感覚(身体内運動)に即した“私の”言葉・思いを伝えられた場合とは、
まるで様相を異にしている
(ここに改めて、“私の”とクォーテーションマークを付して表記したのは、
 そういう度毎に、いわゆる自我としての「私」由来の言葉とは異質・異次元と印象付けられてきたからで。
 と共に、そちらの“私”こそが本来の、あるいは、
 自我の枠組みに搦(から)め取られた「私」が、そこから切り離される以前の“私”と、
 自ずと信認させられもするのだ)。

もしかすると、その牛大の生き物とは、長年の私の自己否定の凝り固まりかもしれず、
それが占有していたスペースに、新たに、
「生まれてきて良かったね」の種が蒔かれたとでも言おうか。

ともかくそれ以降、私は、その種を見守っているのだが、
4ヶ月を経た今日に至っても、微細な変化も認められていない。
その種は秋に蒔かれ、この冬を耐えて、やがて訪れる春に当たって芽を吹き――
その種自体は死んで、多くの実を結び得るのだろうか?

仮にそうだとして、その稔りは、「自己肯定」程度のちっぽけな自己本位でなく、
昨秋のグループ以前の1年ほどの間、
グループ参加者、中でも常識的には打開困難な情況下の誰彼へ、
ふと、「生まれてきて良かったですね」と伝えてきたのが、
前触れかもしれない豊かな稔り・・・「人間肯定」・「存在肯定」。


いや、いや、観念の大風呂敷を広げるのは良い加減止めにして、
私の肺底から立ち昇ってきた種なる言葉の佇(たたず)まいへ、
焦らず思いを潜めてみよう。
                     (続く)

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