今回分を書き出すに当たって、
参考までに、応神帝から雄略帝へ到る、歴代の天皇名を記しておこう。
応神――仁徳――履中(りちゅう)――反正(はんぜい)
――允恭(いんぎょう)――安康――雄略。
仁徳は応神の子であり、
履中、反正、允恭は仁徳の子。
安康及び雄略は允恭の子。
『古事記傳』四十一之巻、「朝倉宮上巻」
(『古事記』「雄略天皇」の段に対応)の中の、
雄略天皇の皇后、若日下部王(ワカクサカベノキミ)を取り上げての註釈の始めで、
宣長は、その名が、『古事記』「仁徳天皇」の段に、
既に、その天皇の御子の一人として挙げられていたこと、
また、同「安康天皇」の段に、
この天皇が、若日下部王の兄、大日下王(オホクサカノキミ)のもとへ根臣(ネノオミ)を遣して、
弟(後の雄略天皇)のために彼の妹を迎えたいと申し入れさせたという記事のあったことを反芻し、
その上で割註(本文中に挿み込まれる、細字の自註)に、
『日本書紀』「履中巻」から、以下の記載を引用する、
「(履中の)次の妃(ミメ)、幡梭皇女(ハタヒノヒメミコ)が、
中帯皇女(ナカシノヒメミコ)を生み、
同天皇の即位6年目、その草香幡梭皇女(クサカハタヒノヒメミコ)を立てて皇后とする」と。
『古事記』の一解釈では、履中の皇后に建てられた幡梭皇女と、
仁徳天皇の子に当たる同名の皇女(つまり雄略の皇后)とは別人ともされるが、
宣長は、「履中巻」の記述こそ誤っていると強調する。
では、彼は、その記述がどのように誤っているというのか?
・・・その前に一応、「若日下部王」は、引用文中の幡梭皇女、
また草香幡梭皇女の別名であったことを断っておこう(前回分参照)。
さて、宣長が、「履中巻」の記述を誤りとする根拠とは?
@まず、第19代の允恭天皇に、橘大郎女(タチバナノオホイラツメ)という御子があり、
一方、幡梭皇女は、「橘姫」という別名も有しているので、
互いにその名が似通っているため、『日本書紀』編纂に際して取り違えが生じ、
履中の“次の妃”とは、実は前者(橘大郎女)ではなかろうかと。
Aまた、幡梭皇女(若日下部王)が生んだとされる中帯皇子は、
『書紀』「安康巻」によれば、
若日下部王の兄、大日下王の妃(ミメ)であるので、
兄妹で名が一時違いに過ぎないことも手助って、
兄の妃が若日下部王その人の御子であるかのように取り違えられたのではないかと。
@、Aを踏まえて宣長は、
中帯皇女が真に履中の子だとして、
その母皇后は、別の女王(いずれかの天皇の子)に違いないと締めくくる。
幡梭皇女は、その別名がさまざまであるなどしたためか、
種々に取り違えられたわけだ。
『古事記傳』では、そこここで、“取り違え”という事態の解明が試みられ、
以上より、より錯綜した様相を呈するケースの方が、寧ろ多数。
私は何度も何度も読み返し、
更には人物相互の関係図などを作成して、著者の眼識に迫ろうとする。
しかも、そんな手間に若干の悦びさえ加味されるのは、
私にとって宣長は、最早、歴史上の人物でないからだろうか?
(終わり)
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