何らかの出来事・現象に直面して、
心が動盪(どうとう)して止まず、
我知らず、「すばらしい」と口を衝(つ)いて出たとしよう。
もし第三者がそれを耳に留め、
共感的な心持へ誘われたとしたならば、
「すばらしい」という言葉の意味合いより遙かに、
それに伴っているところの声音の強弱、長短、深浅といった
抑揚――文(あや)によってであるだろう。
文こそは よりピュア(素純)に、
発語者の心情を担っており、
更には、言葉の真実味を保証すると思われるから。
そして発語者は、
共感を得られたことによって、人心地つける。
言葉を発するという人間固有の行為は、
元来、その者の欲求を満たすための術(すべ)でなく、
ひとと共に生きるための、
自(おの)ずからな「道」だった。
以上は、小林秀雄著『本居宣長』、4度目の読書に煽(あお)られて。 |