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翠嵐6期生憩いの広場

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『2049年「お金」消滅』を読む(1)
by かおる at 2022/8/11(木) 12:12:08 No.20220811110059 コメント】  削除 引用
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No.1

先日、貯まった小銭を貯金しようと郵便局に持っていったら「50枚までお預かりします。それ以上になると料金

がかかります」と言われ驚いた。貯金するのに「お金」がかかるとはどういうことか、キツネにつままれたよう

な話だ。以後小銭が増えないようにカードを使っている。新聞に居酒屋や床屋でスマホ決済が始まり、日本で

もキャッシュレスの時代が始まったと報じている。この本は「お金」はもうすぐ消えると銘打った190頁の新書

だが、社会構造を変えてしまう重大な変革が書いてあった。いま現実として、硬貨やお札の貨幣が消え始めてい

ます。これこそが未来の「お金消滅」の第一段階ですキャッシュレスであることはマネーレスになると考えられ

ます。本当にそんなことが起こるのでしょうか。「お金が消滅する」ということはモノやサービスが無料になる

という状況です。例えば、デジタルデータはいくらコピーしても減らず需要に対して必ず供給できそうです。

そのため、デジタルのものは遅かれ早かれ無料になると主張する人もいます。フェースブックやグーグルはデジ

タルな無料のサービスで多くのユーザーを集め、一方で広告主に対しては有料で広告枠を提供しています。デジタル分野を中心として、こう

したビジネスで無料が当たり前になるところが見られますが、デジタルだから必ず無料という段階にはまだ至っていません、事業には何らか

のコストがかかりますし、実際に値段がゼロのものを供給し続けようとすれば、赤字は必至でその事業はスタートすらしないでしょう。私たち

が「お金」の経済に束縛されている間は、すべてのモノやサービスが無料になる事はありません。この束縛を外す有力な見通しが述べられてい

ます。
『海運王山下亀三郎』を読む(7)
by かおる at 2022/6/24(金) 10:05:38 No.20220624090215 コメント】  削除 引用

明治25年春、亀三郎は結婚した。結婚を機に亀三郎は満俺の買い付ける仕事を任された。一月の大半を栃木の山奥で過ごす生活が一年続いた。

文次郎は平沼貯蓄銀行から融資を受けて事業を拡げて買い付け先は青森にまで伸びた。ところが秋に、文次郎の会社の主要な取引先が不渡り

を出して、そのあおりで亜米利加満俺貿易商会もつぶれてしまった。幸い亀三郎には手持ちの資金があった。明治27年、亀三郎は太田町に

家賃15円で商家を借り用紙問屋「山下商店」を開業した。洋紙の卸先は役場、銀行、病院、学校など増えた。ところがどこもまだ和紙だけ

を使っており、卸した洋紙は積んだままである。これでは代金回収のしようもない。さらに邪魔になるから引き取ってくれと言われ、山下商

店は半年も経つと店を閉じて転居しなければならなかった。ところが世は日清戦争の最中である。亀三郎にも転機が訪れようとしていた。

伝手を頼りに仕事を探していると、横浜に本店がある竹内兄弟商会に雇われた。満俺売買の経験を買われ、石炭部の番頭に迎えられた。

明治29年ペリー来航からおよそ半世紀が経ち、近代日本の海運は黎明期を迎えようとしていた。

『海運王山下亀三郎』を読む(6)
by かおる at 2022/6/20(月) 14:45:06 No.20220620134757 コメント】  削除 引用
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No.1

亀三郎が連れてこられた「千歳」は女将が若い頃、おこうといい、伊藤博文、山県有朋、大隈重信など明治の

元勲から寵愛され、政治の裏面史を彩った女傑でもある。おこうの名と人脈で千歳は時の政財界の実力者が使

う料亭になっていた。この日千歳の広い座敷の上座に陣取っていたのは、石炭商から身を立て、金融ブローカー

として横浜の経済界を牛耳っていた平沼専蔵である。この平沼専蔵は明治の実業家、政治家で横浜銀行の創立者

である。間違える人がいるのではっきりしておくが、元横浜市長の平沼亮三家は西区平沼近辺で製塩を始め、

生糸で成功した商人で、専蔵家は埼玉県飯能の出身、両家に血縁関係はない。亀三郎は専蔵に挨拶代わりに何か

唄へと命じられた。「では、かっぽれのさわりを少し…」「かっぽれ、かっぽれ、よ〜い、よいよい。沖が

暗いのに白帆が見ゆる。あ〜りゃ、そ〜りゃ。かっぽれ、かっぽれ、惚れて通えば千里も一里。会えずに帰れ

ば、また千里」宴会は盛り上がり平沼はご機嫌だった。
『海運王山下亀三郎』を読む(5)
by かおる at 2022/5/31(火) 11:59:55 No.20220531111141 コメント】  削除 引用

横浜に舞い戻ったある日伊勢崎の方へ下る道を歩いていると、「亜米利加満貫貿易商会」という看板が目に留まった。「満俺」

(マンガン)が読めない。看板を見つめながら亀次郎は首を傾げた。「君、何か用かい」振り向くと後ろに洋服の男がいた。

男は池田文次郎といい、貿易商会の店主だった。マンガンは鉄に混ぜると鉄を硬くする性質から大砲や砲身など作るために、

店は鉱石の満俺を買い集めアメリカへ輸出しているので自分に代わって山へでかけ、満俺の取引ができる若い番頭を池田は求

めていた。池田は亀三郎を月給15円で雇うことにし、真砂町3丁目(関内駅辺り)にある一軒家を世話した。家を与えられ

亀三郎はやる気がわいた。仕事は満俺のブローカーである。訓導、店員、編集者、日雇い人夫、沖仲仕などなんでもしたが

ブローカーの仕事が亀三郎の性分に最もあっていた。この頃の日本は近代国家建設の最中である。鉄道が延び、紡績業を中心

に産業革命が進み、貿易拠点の横浜は近代国家日本の先端地域として、繁栄のただなかにあった。横浜末吉町の高級料亭

「千歳」で開かれた年の瀬の宴会に池田は亀三郎を連れて行った。
翠嵐会総会・講演会・懇親会中止、代替措置のご案内
by 翠嵐会事務局 at 2022/5/17(火) 18:33:50 No.20220517183040 コメント】  削除 引用

翠嵐会会長の江成正彦です。
※宛先複数なため、サラト社に委託して送信しています。ご容赦ください。

翠嵐会会員の皆様、ご無沙汰しております。

翠嵐会総会は5月21日(土)に崎陽軒にて開催を予定しておりましたが、未だ新型コロナウイルス感染症が終息した状況になく、感染のリスクを負ってまで開催するべきではないとの判断から中止いたします。

そこで、昨年同様の代替措置をとることにいたしました。
2022年5月14日(土)〜2022年5月21日(土)の期間、翠嵐会ホームページに総会議案書、プレゼンを公開しています。お読みの上、令和3年度決算、令和4年度事業計画・予算案を送信フォームによりご承認ください。

令和4年度翠嵐会総会【中止】に伴う会員の皆様へ承認のお願いのURL:
https://www.suirankai.jp/event/meeting/9691/

講演会については2022年8月27日(土)リモートで開催します。
講演会講師は心理カウンセラー、各種セミナー講師として活躍しているmanaレインボー代表松尾直子(高31回)さんにご講演いただきます。
詳細は案内ページをご覧ください。

松尾直子さん、リモート講演会開催のお知らせのURL:
https://www.suirankai.jp/event/meeting/9687/

コロナが収まり、直接お会いできる日を楽しみにしています。

『海運王山下亀三郎』を読む(4)
by かおる at 2022/5/13(金) 20:18:57 No.20220513193224 コメント】  削除 引用

まとまった金が出来たので吉原へ行った。通うたびに楼を変え、なじみの遊女をつくらないようになった。亀三郎は学校よりも吉原へ通う方

が多くなっていた。この年の11月東京でコレラが大流行した。郷里の山下家では、母ケイが近くの雷神社へお百度参りをするようになった。

ある朝、村人がケイに願い事を訊いた。「ろくでなしのどん亀が、コレラで死ぬるようお願いしとるとこですらい」「コレラはポックリ死ぬ

けん誰にも迷惑は掛からん。あの穀つぶしはコレラで死んだらええ。皆のためじゃ」幸いにも母の願いは届かなかった。亀三郎の吉原通いは

翌年も続き二百円の大金はすっかりなくなってしまった。亀三郎は行き詰まり学問を捨てた。吉原に溺れるならとことん溺れ、いっそ幇間

をして生きていこう、とそこまで思いつめる日々が続いた。父源次郎から案否を問う手紙があったのは此の頃である。亀三郎は窮状を素直に

したため返事を返した。折り返し分厚い封書が届き、その中で源次郎は、同郷の先輩でアメリカへ渡った村井保固が、貿易商として成功して

森村組の幹部に出世して暫く東京で仕事をしていると、保固の消息を伝え「この際、気が向くときに会ってみてはどうか」と源次郎は手紙で

勧めた。商売の成功もさることながら、保固がアメリカの女性を妻にしたことは亀三郎にとって驚きだった。この当時、文明国の白人女性を

妻に迎えるなどということは、およそ考えもつかないことだったのである。国際連盟事務局次長など、国際人として活躍した新渡戸稲造と

アメリカ人令嬢の国際結婚より5年も前のことである。
『海運王山下亀三郎』を読む(3)
by かおる at 2022/5/6(金) 09:26:42 No.20220506083446 コメント】  削除 引用

[上京して明治法律学校を推薦され入学するも落第、放蕩破綻の末、再度帰郷する] 上京すると、書生が多く住む駿河台に下宿を見つけた。

仕送りを仰ぐため手紙を出した。父からはすぐに返事が届いた。亀三郎の状況を旧藩主の伊達宗敬に言上奉ったところ、畏れ多くも伊達宗城

公は喜佐方村の庄屋の倅を見てみたいと申された。紋付き袴を送るからただちに参上し、拝謁の栄誉にあずかるようにしたためてあった。

亀三郎は宗城公に拝謁した。「行く先は決まったか」「いえ、まだなにも」「ならば穂積陳重に会うがよい」と、陳重はドイツ留学から

帰ってきて東京大学の講師をしている穂積の名をあげた。穂積家は宇和島藩の家老の家柄である。穂積は亀三郎を有楽町にある明治法律

学校への入学を勧めてくれた。すぐ郷里から入学金が届いた。なんとか1年は亀三郎は夢中でついていった。しかし2年目に入ると授業は難

しくなり亀三郎は取り残されていった。その頃悪友に誘われ「吉原」に通いだした。親に送金を頼んだが断られた。下宿代も払えず、明日を

もしのぐ金に事欠く有様である。四国に帰って親に直談判するほかなかった。亀三郎は3年半ぶりに帰郷した。翌日、父源次郎が隠居してい

る離れの表座敷で話し合った。顔をそろえたのは両親と跡取りの重治郎それに亀三郎の4人である。卒業までの2年間分の学費と下宿代で200円

の大金の仕送りを受けることで決着した。これは事実上の財産分与で、末っ子の亀三郎は家督の一部を強引に横取りしたのだった。

『海運王山下亀三郎』を読む(2)
by かおる at 2022/4/28(木) 16:53:21 No.20220428161405 コメント】  削除 引用

[郷里を飛び出す] 勝手に退学して家に戻った亀三郎を、父源次郎は勉強嫌いのお前を無理に中学校へ勧めたことを謝り、母とも相談して

山を一つ亀三郎に譲り山の仕事をしながらゆっくり先のことを考える様にと話した。亀三郎は山の仕事をしながら密かに村を飛び出す日を待

った。その日は霙交じりの雨が降っていた。山に入った亀三郎は小屋に隠していた風呂敷包みを小脇に抱え村の一本道を下りてくると、

長屋門と白い塀越しに見える屋敷に一礼し踵を返した。街の方へ急ぎ、山下家から米を仕入れている造り酒屋へ立ち寄り、米代の集金に来ま

したと偽って金を受け取り路銀にした。3日後亀三郎は京都の祇園清井町の下宿に転がり込んだ。丁稚奉公覚悟で郷里を飛び出してきたのだ

がその気概は日ごとに薄れていった。下宿暮らしを始めて数か月過ぎたころ小学校で代用教員の話が来た。勉強嫌いの落第生が先生の真似事

をやるというのも可笑しなことだが、金がなかった。代用教員をしながらいろいろ考えた末、もう一度勉強をし直すことにした。結局、

亀三郎は京都を逃げ出し四日市から小さな汽船で上京して横浜に上陸した。山下亀三郎、17歳の晩秋のことである。

『海運王山下亀三郎』を読む(1)
by かおる at 2022/4/23(土) 11:22:37 No.20220423102528 コメント】  削除 引用
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No.1

[有隣堂で平積みしてあった表紙の山下亀三郎の写真に吸い込まれて手に取った。波瀾万丈の生涯は興味深い

加えて明治の横浜が舞台にもなっていて親近感が募った] 山下亀三郎は、四国の南端宇和島藩の喜佐方村の

庄屋に6人兄弟の末子に生まれた。父源次郎はすでに隠居の身で大事なことは母に任せてあったが、息子の将来

のことを話すよう、母は夫に頼んでいた。「亀三郎よ、村井家の保固さんがアメリカへ渡ったのは知っとるな」

村井保固は村の少年たちの憧れの先輩である。明治10年2月、西南の役の前夜の不穏な情勢の中、上京して福沢

諭吉に会い慶應義塾で学ぶようになった。ここで犬養毅や尾崎行雄らと終生親交を結ぶことになる。保固は義塾

をおえると、福沢の紹介で貿易商森村組のニューヨーク支店へ派遣された。明治12年9月横浜から旅立った。

それからちょうど1年経っていた。「亀三郎よ、お前は保固さんのようになりたいだろう」亀三郎は胸を張った

「おっとさんが望んでいるなら、俺だってなってみせる」明治13年9月、亀三郎は宇和島の南予中学校予科に

入学した。予科のまま2年が過ぎ亀三郎は4度目の本科編入試験に落第した。とても本科に進めそうもないので退学の手続きをして喜佐方村

に帰って来た。
私の本棚『頼朝の武士団』(8)
by かおる at 2022/4/13(水) 11:33:13 No.20220413103532 コメント】  削除 引用

[頼朝の家来] 流人の頼朝のような危険人物に仕える物好きは多くいない。その中に藤九郎盛長という名字もはっきりしない人物がいた。

後に陸奥の安達を領地にしたので安達盛長を名乗った。後年、幕府内で大きな力を持った安達氏の始祖で、彼の妻は比企尼の娘で頼朝が

伊豆に配流された時から頼朝についてきていた◆頼朝が千葉常胤、上総広常と一緒に隅田川を渡って武蔵に入った時、頼朝のもう一人の

乳母寒河尼とその息子が頼朝の陣に来て、息子を側近くで奉公させてやって欲しいと願い出ると、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ

小山七郎宗朝と名乗らせた。のちに結城朝光と改名して頼朝は朝光を近習として可愛がり朝光も頼朝を慕う主従関係が結ばれた◆頼朝は

自分のもとに結集した武士たちを頼朝の父系血族の門葉、侍やその子弟から選抜した親衛隊の家子と他の御家人に区別した。家子の11人は

毎晩頼朝の新所の近くで輪番制の徹夜で警護番をした弓矢が上手で、頼朝と親しい人を選んでいた。その筆頭が江間四郎義時で寒河尼の息子

結城七郎朝光、和田次郎義茂、千葉太郎胤正、三浦十郎義連の豪族の息子それに伊豆の挙兵時から参集した宇佐美平治実政ら御隔心無き輩が

頼朝の家子であった。



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