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みんなの広場「こころのパレット」

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〈発 現〉 引用
池見隆雄 2026/3/30(月)14:41:21 No.20260330142927 削除
 早朝散歩の途次、公園のベンチに腰を下ろす。
 4,5羽の雀がそのあたりの地面をつついていたが、
 うち一羽が怖れ気もなく私の足元まで至る。

 「おい、おい」と思わず声を掛ける私。
 私における、S言うところの個別的本質の発現かな。

 未来も、可能性も無限であるならば、
 一日一日を生きることばかり考えていればいいんだな。
 一日一日を。


 このサイトが今月一杯で閉じられるため、
 『心のパレット』も、今日まで閲覧して下さった皆さんの目前から消失することとなります。
 プロパイダ―のOさんが、新たなブログを設定するべく勘案して下さっていますので、
 遠からず再登場ということになりそうです。
 私自身はそれを楽しみにしています。
 『心のパレット』を、今後ともどうぞ宜しく。

〈真空妙有〉 引用
池見隆雄 2026/3/27(金)13:46:21 No.20260327133959 削除
 スピノザは、「賢者は、死について考えることが最も少ない」と言った。
 位已光児さんは、「無限の未来、無限の可能性」と。
 これらも良し。
 
 近頃、気に入っているのは、菩提寺から毎月届く『寺だより』中の一節。
 「あの世は生きている者には絶対にわからない世界ですが、
  無ければこの今が生きられない」。
 そして、あの世のこのような有様は、「真空妙有」と表されるとか。

 私はこの今を生きている、自(おの)ずとそう思える。

〈楽曲の“今”〉 引用
池見隆雄 2026/3/25(水)14:40:20 No.20260325142525 削除
 このところ、バッハの『平均律クラヴィーア曲集T・U巻』ばかり聴いている。
 幾人かの演奏家で。――演奏にはハープシコード、ピアノを用いたものの2種あり。

 今日はリヒテルのピアノでT巻の最後の3曲を。
 この巻を締めくくる第24番ロ短調は15分以上かけて弾いている。
 昨日、一昨日と心的エネルギーを用いること少なくなかったということもあるのだろう。
 正座して再生機へ向かいつつも、ウトウトとする。
 曲、あるいは演奏がつまらないからというのでは毛頭ない。
 このあたりの曲は、『フーガの技法』からの感銘に共通する、
 と思いつつウトウトしている。

 フーガという楽曲形式を私は、今更のように気に入っているようだ。
 音の重なりでなく横への連なり。
 どちらにしても音楽は、その“今”を表現しているに違いないのだが、
 フーガは、その今がいつまでも終わらないということを、殊更印象付けてくれる。

 リヒテルのディスクは終了した。
 しかし、私は、この“今”を生きている。
 そのことに意識の根を浸されつつ。

〈グループ後〉 引用
池見隆雄 2026/3/16(月)14:30:06 No.20260316141139 削除
 あまりCDを聴く機会を作れない近頃の中で、ふとそうしようと思い立つとき、
 対象のCDは、アンジェラ・ヒューイット(ピアノ)のバッハ、『フーガの技法』。
 殊更心動かされることも、退屈することもなく、淡々とした心持で、
 しかし次から次と聴き進めていく(全19曲)。

 今日は珍しく、その曲が6曲ばかり流れたところで、
 シューベルトの『未完成』交響曲やショスタコーヴィッチの『弦楽四重奏第五番』が思い浮かんで来た。
 こういうふうに他の曲が連想されるとき、あるいはされ始めるときは、
 音楽そのものへの感興が蘇ってくる兆候であることが多い。
 ――それをずっと拡大して言わば、再び生きんとする態勢が調いつつあるということになるか。

 一昨日、昨日の二日間は、学生とのエンカウンター・グループだった。
 心理臨床を学んで来た彼らだけに内省力には見るものがあり、
 私として手応えと心強さを覚えた。

 疲れなかったわけではないが、昨今種々の身体の不調ながらに、
 私が最も目指すところのグループでの自分、というかファシリテーターの在り方を
 可能な限り文章でもってなぞりたい、その作業への思いも途切れてはいないようだし、
 前述のように寧ろ生きる態勢の蘇りさえ意識野へ反映されている。

 学生の彼らは、来月から各々の職場で自分を試し、生かすことになる――そうであるように。
 私自身は、今のこの場を維持し、花の一つも咲かせたいと思う。
 

〈里程標〉 引用
池見隆雄 2026/3/13(金)16:16:04 No.20260313155650 削除
 この一週間かそれ以上、音楽を聴いていない。
 ――聴きかけて直ぐに止めるとか、聴こうとしていると来客ということはあった。

 聴こうという欲求も希薄、もう少しいえば
 それより今の私に必要なもの、あるいはことがありそうな内的感覚を拭いきれず、
 結局CDをトレイに乗せ損ねてしまう。

 読み・書きへは、関心・意欲がこの数ヶ月より高まっているようだ。
 ということは、その間、音楽は、そういう私の意欲を育んでくれていたのかもしれない。
 心地良い思いや、推進力や内省力の深まりなどを、聴くごとに味わわせて貰ったものだ。

 意識の上でも、どちらかというなら、「聴く」よりも「読み書き」へのウェイトが重い。
 どんなに素晴らしい曲、演奏であっても、所詮、聴くという行為は受動的だ。
 どんなに拙い小文であってもそれは私の能動的な営みだ。

 受動は能動へと至るプロセスなのかもしれない、少なくとも私自身にとって。
 そして当然、両者の間には呼応するものがなくてはならないだろう。
 別言すれば、一致する要素がなくてはならないだろう。
 似て非であるところこそ、私の私たる所以なのかもしれない。

 只今の私にとって音楽は、どちらかといえば非であり、
 それをより厳密に規定すれば、私の現在の位置を指し示す里程標。

〈春雨に〉 引用
池見隆雄 2026/3/6(金)14:45:05 No.20260306144238 削除
 昨夜来の雨が降り続いています。
 ほとんど無風で、気温も低すぎず、春雨という風情です。

 協会の庭の木瓜(ぼけ)が、雨天へ向かって多くの花を咲かせています。
 四季はいつの間にかめぐり、
 それとともに私たちも、見えないところで変化し続けています。

 大いなる自然の変化に身を委ねつつ、
 「今日の私にこんにちは」。
 「生きていることに、こんにちは」。
 
 何かが始まり、何かが終わる。
 この春雨に当たって。

〈当たり前――Mさんへの返信より〉 引用
池見隆雄 2026/3/5(木)14:08:35 No.20260305135352 削除
 (前略)
 Mさんのメールに私の案内文の一節を引用して貰っていますが、
 それへ私は共感を覚えました、というか自分自身から生じて来たものへ対して、
 他の誰に依るものより共感を覚えるという
 当たり前のような事実に今更気付かされたわけです。

 このあたりに、自らの言葉にするという含蓄があるのだろうと――
 それを物し、目の当たりにし、読み返すことによって更なる動力を得るのだと思います。

 むろん、その背景には、多くの方たちや書物などとの和合的出会いがそびえている。
 自分自身の作文へ改めて対することによってそれらへの感謝も湧いてくるわけで、
 それらは「全体」ともいえ、
 書く、表現するということは、全体の中での己の位置を確認する営為でもあり得ると思われます。

 今度のMさんのメールが、種々の深度へ思いを馳せる機縁となり、感謝です。

        〇月〇日          



〈Sの観点に倣いつつ――映画青年さんへの返信〉 引用
池見隆雄 2026/2/21(土)15:42:49 No.20260221145832 削除
 指揮者の誕生日に当たっての大曲の演奏会とは幸運だったね。
 私のコレクションの内にも『千人の交響曲』は含まれるが、
 種々の理由から今日まで選び出すことはなかった。

 映画青年さんの投稿へ目を通して、敢えてその曲を聴いてみようかとの気運が生じている。
 しかし、リヒテルの『平均律』を鳴らしてみると、これがまた良いんだ。
 ピアノの響きの何と柔らかなこと。
 リヒテルの音ってこんなだったかな、いや、こんなふうにも弾けるんだきっと、曲目次第で。
 
 再演の方も、大いに楽しめたことだろうと想う。

 また、映画青年さんが、演奏会体験を語るときは普段に似ず熱っぽくなるのが楽しい、
 本性の一端が窺えるようでね。

 17世紀の哲学Sは、
 「我々の本性、単にそれ自体で見られた我々の本性、の必然性に由来する活動をなすこと」
 が、「理性に従って働くこと」だと述べる。

 また、理性の導きに従って生活する人間とは、
 「一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人」と。
 
 すると、理性に従って働くこと、あるいは理性の導きに従って生活するとは、
 一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知ること。
 それはまた、我々の本性の必然性に由来する活動そのものだ。

 以上の論の流れからすると、神の本性の必然性=我々の本性の必然性、
 更には我々の本性は神の本性に他ならないことになるだろう。

 そういえば、位已光児さんが『Sとの対話』という冊子に、
 「人間を超えた神ではないのですから、人間は最高の存在ということになります。
 お互いを尊重しながら、それぞれが堂々と生きられるのです。」
 と記しておられた。
 
 私たちが理性に従って働くこと、言い換えればそのときに限っての欲望は、
 私たち=神の本性に由来する。

 この『千人の交響曲』という作品が、――作曲者マーラーのこの行為が、
 彼の本性に由来することは紛れもないだろうが、
 インバルの指揮もまた彼の本性に由来しているだろう。
 作曲者と指揮者の間に“一致”ということも想定されるか?

 そして、映画青年さんがこの機会を欲し、上京したという行動、
 そこに種々他の動機が絡んでいたとしても、主なところは映画青年さんの本性に由来すると思う。
 結果として感動、盛り沢山の喜びを多数の人たちと共にしたわけだ。
 
 本性由来の欲求や行動をSは「能動」というが、
 「能動」には必ず喜びの感情が随伴し、その感情がまた「能動」をさらに強化する。

 私は、映画青年さんが今後も、
 演奏会出席に限らない本性由来の行動、あるいは理性に導かれた生活を送ってくれることを望みたい。
 Sは「能動」を「自由」とも言い換えているので、映画青年さんが益々自由であるように。
 そして、その「自由」を一人でも多くの人たちと分かち合えるように。

 

〈縁の間に間に〉 引用
池見隆雄 2026/2/18(水)14:47:33 No.20260218143336 削除
 昨夕は、「福岡聖恵(めぐみ)病院」内の一室で開かれるヨーガ教室へ出かける。
 2005年3月以来月1回。

 私の体調は相当程度悪かったが、
 終えてみると心身共に和んでいた。
 少数の生徒さんたちだけれども、その場から何らかを吸収しようという意力が旺盛で、
 恐らく私は、それによって自分の本性を発揮しやすくなるのだと思う。

 種々の体位の合間で語らせて貰っていることも、
 即興ゆえに却って関係の内へと解放され、自由感がいや増す。

 何年かぶりに再参加の方がお一人。
 姿が見えても見えなくても、縁の跡切れることはなかったのだと思う。
 あるいは、どこのだれとでも、潜在的に縁は繋がっている。

千人の交響曲 引用
映画青年 2026/2/16(月)23:50:40 No.20260216230343 削除
今宵はサントリーホールでマーラーの8番、千人の交響曲を堪能した。
指揮はインバル、演奏は都響に混声合唱や女性合唱、児童合唱、独唱ソリスト8名、客席にも金管楽器が配置された。
演奏は素晴らしかった。
千人の交響曲は何十年ぶりかでライブを聴いた。
サントリーホールも35年以上ぶり。
やはりこういう曲は生演奏でないと味わい尽くせないだろう。
特に児童合唱の朗らかな音は、そう感じる。
そして、この曲のあとにアンコールなどありえないと思ったのだが、指揮者が出てきてもいないのにコンマスの合図でおもむろに底弦がなり出し、
それは合奏になり、やがてステージにいた合唱団や児童合唱にソリストまで加わり、ハッピーバースデートゥーユーに。
そうだった。
今日はインバルの90歳の誕生日なのです。
再びステージに登場したインバルには花束とバースデーケーキが。
ひとしきりカーテンコールが続いたあと、楽員も合唱の方々もソリストもみんなはけて、ステージが空になっても鳴り止まない拍手に、インバルがコンマスとチェロのトップを引き連れて登場。
ようやく拍手も落ち着いた。
明日は東京文化会館で同プロが再演される。
私はそれにもいく。

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