昨今、協会の中庭の一隅に、水仙が咲き乱れている。
私には、自惚れている彼らでなく、
フォーカシング(内省・自己への沈潜)していると見て取れる。
極めて不十分な理解、身勝手に基づくなら、
スピノザの神(自然・実体)は、絶えずフォーカシングを継続している。
それに伴うシフトなりが、この世の存在者に他ならないということ。
といって、それらは神の手になる被創造でなく、
シフトなのだから、神自身の“表現”というのが適当だろう。
しかもその本質を神と分有している、
――神は、それら以上ではないといって過言でない。
私たちは、その本質はそれぞれ互いに異なっても、
出自において全く平等なのだ。
水仙たちは、常にフォーカシングしつつ、
互いに尊重し合っている。 |