指揮者の誕生日に当たっての大曲の演奏会とは幸運だったね。
私のコレクションの内にも『千人の交響曲』は含まれるが、
種々の理由から今日まで選び出すことはなかった。
映画青年さんの投稿へ目を通して、敢えてその曲を聴いてみようかとの気運が生じている。
しかし、リヒテルの『平均律』を鳴らしてみると、これがまた良いんだ。
ピアノの響きの何と柔らかなこと。
リヒテルの音ってこんなだったかな、いや、こんなふうにも弾けるんだきっと、曲目次第で。
再演の方も、大いに楽しめたことだろうと想う。
また、映画青年さんが、演奏会体験を語るときは普段に似ず熱っぽくなるのが楽しい、
本性の一端が窺えるようでね。
17世紀の哲学Sは、
「我々の本性、単にそれ自体で見られた我々の本性、の必然性に由来する活動をなすこと」
が、「理性に従って働くこと」だと述べる。
また、理性の導きに従って生活する人間とは、
「一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人」と。
すると、理性に従って働くこと、あるいは理性の導きに従って生活するとは、
一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知ること。
それはまた、我々の本性の必然性に由来する活動そのものだ。
以上の論の流れからすると、神の本性の必然性=我々の本性の必然性、
更には我々の本性は神の本性に他ならないことになるだろう。
そういえば、位已光児さんが『Sとの対話』という冊子に、
「人間を超えた神ではないのですから、人間は最高の存在ということになります。
お互いを尊重しながら、それぞれが堂々と生きられるのです。」
と記しておられた。
私たちが理性に従って働くこと、言い換えればそのときに限っての欲望は、
私たち=神の本性に由来する。
この『千人の交響曲』という作品が、――作曲者マーラーのこの行為が、
彼の本性に由来することは紛れもないだろうが、
インバルの指揮もまた彼の本性に由来しているだろう。
作曲者と指揮者の間に“一致”ということも想定されるか?
そして、映画青年さんがこの機会を欲し、上京したという行動、
そこに種々他の動機が絡んでいたとしても、主なところは映画青年さんの本性に由来すると思う。
結果として感動、盛り沢山の喜びを多数の人たちと共にしたわけだ。
本性由来の欲求や行動をSは「能動」というが、
「能動」には必ず喜びの感情が随伴し、その感情がまた「能動」をさらに強化する。
私は、映画青年さんが今後も、
演奏会出席に限らない本性由来の行動、あるいは理性に導かれた生活を送ってくれることを望みたい。
Sは「能動」を「自由」とも言い換えているので、映画青年さんが益々自由であるように。
そして、その「自由」を一人でも多くの人たちと分かち合えるように。
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