通い形式による、ある土、日2日間エンカウンター・グループの2日目朝、
前日同様、開始に当たって、全参加者間で、各々に、
偶々その時心に思い浮かぶ何らかを、表明し合って貰う。
但し、とくに何も思い浮かばない、
思い浮かんだとしても言葉にし辛い、
あるいは敢えてそうしたくないというのであればパスも可。
女性メンバーの若い一人が、昨夜、1日目を終えて(1日目は午後5時終了)帰宅後、
炬燵に温もりつつ、テレビ放映の『翔んで埼玉』を視聴していたが、
中途で眠気を覚え、あとは録画に切り替えたという。
「途中で眠たくなるような映画じゃないと思うけど・・・」
誰かが茶々を入れると、
当人と私を除くメンバーほぼ全員が同調の笑い声を立てるので、
初耳の私にも、劇場公開中から観客(視聴者)を倦ませず、
評判になった作と推測がつく。
さて、2日目は午後3時半をもって終了となるが、
その数分前、私はその女性メンバーへ、
次のような提案めく、自(おの)ずからな表明を試みている、
「あなた自身に、もう少し、心を動かすことを許していいんじゃない」 と。
その人は年少時から武道を続けて来ており、稽古中に大怪我を負いさえしたらしいが、
まるで化粧気のない見た目からして、
またグループという話題の流れに棹(さお)差しての折々の発言を通して、
感じる心の働き―心の動揺を、極力、抑える習慣を身につけているのが窺われた。
しかし、彼女は、近い将来、
他者を心理的に援助する立場に身を置くことを希望している。
つまりは、他者とともに心を動かすこと、
しかも相手に巻き込まれてしまわず、
そういう形のない自分の心の運動の中へ、相手への反応を探る、
更なる高次の温かな心をも合わせ持たなくてはならないわけだ。
しれにしても、自己内面の発動を抑制し過ぎては、
援助的心構えへの一歩が踏み出せないのではとの老婆心から、
私は、前述の提案めいた発言に及ぶ。
彼女自身、初経験のグループ内での、
ファシリテーターと参加メンバー同士の会話を目の当たりするにつけ、
心を動かすということの積極面を、木洩れ陽の微かなきらめきさながら、
彼女の内なるスクリーンに反映させていると見受けられなくもなかったが。
私の表明は相手に素直に受容されたか、打てば響くように、
「これまで、心を動かさないということにしか関心がありませんでしたが、
動かすことにもチャレンジしてみたいと思います」 と。
今度は、他ならない、その朝の彼女の一言が、私の意識野へ浮上してきての響き返し。
「『翔んで埼玉』なんか観て(心を動かす練習をしてみて)ね」
彼女を始めグループの皆から哄笑が湧き起こる。
――彼らと私自身が感受しているおかしさの根と茎を、
瑞瑞しく描き出す表現力を持ち合わせないのが歯痒いが。
少なくともそれは、温かな笑い――温かな高次の心の共有であり、
「この人たちと、2日間のグループを一緒できて幸い」
と感謝できるものだった。 |