みんなの広場「こころのパレット」

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〈山中にて〉 引用
池見隆雄 2021/7/21(水)15:23:30 No.20210721150924 削除
 一昨昨日も、大汗をかきつつ山歩き。
 大佐野山の頂上で家内手作りの弁当を広げ、さて下山に掛かったところで、
 後頭部に混濁感が生じ、それが意識されるとともに気が滅入る。

 休日を利用してせっかく自然の懐へ分け入りながら、
 こんな体(てい)たらくを持ち帰りたくない・・・・
 そのときふと、思い付いた、
 熱中症!

 手持ちの飲料水を飲み干し、
 汗まみれの身体をタオルで拭い着替えを済ませると、
 次第に心身が、正調を取り戻す――心地良さが感得される。

 またしてもスピノザを引き合いに出せば、
 彼は、生命体の本質に「コナトゥス」という名を与えている。
 直訳ならば「力」、「努力」を意味するらしい。

 「コナトゥス」は、生命体が現状を維持しようとするときに働くエネルギー。
 そこで、わたしが、熱中症の兆候に気付けたことや、それへの対処は、
 そのエネルギーの促しに負うているということになる。

 また、兆候への気付きや対処そのものも、
 「変状の能力」=「本質」と呼ばれる。

〈裏返し〉 引用
池見隆雄 2021/7/16(金)13:57:52 No.20210716134902 削除
 先月中旬に再発した突発性難聴だが、本日、
 「池見さん、治ってますよ」と、
 ドクターの方が、患者本人よりよほど嬉しそう。

 半年も服用し続けてきた薬類をふいに全て廃止してしまうのも不安で、
 「お薬ものまなくていですか?」
 「治ったのに、お薬のまんでいいでしょう」
 と 取り付く島もなし。
 従って薬局にも寄らず、手持無沙汰のまま早々に戻ってきた。

 1日3回の服薬によって生活のリズムが形成されてきたというのに……
 そして、いったい、何を目的に今後の日々を生きるのか?

〈気の早い話〉 引用
池見隆雄 2021/7/13(火)16:17:08 No.20210713155930 削除
 一昨日で、「中動態的対話」の2日研修、終了。
 スタッフを含めた参加者間において、
 会名通りの実践は十分実現されていたが、
 理論面の提示及び摂取が不十分。

 理論と実践両面が相応していたなら、
 研修としての手応えは、参加者、スタッフの別なく、
 より募っていたはず。
  
 終了の時点で、スタッフ側の一人、私自身は、
 実践面の充実によって今度の研修に満足していなくはなかったが、
 一夜明けて、次第に、理論面の弱さというか、
 「中動態」の知的理解に重点を置かれている方もあったわけで、
 その要望に応えられていない心残りが、
 大量の雨を含んだ黒雲さながら、心中を脅かしつつある。

 そこで、明年も行うはずのほぼ同テーマの研修へ向けて、
 直ぐにも、理論面の充実へ向けた態勢を調えようと欲するが、
 今回のように、スピノザ哲学との関連に集中するのと異なり、
 「中動態」の歴史的、文法的背景まで視野に入れてとなると、
 さてどこから、どのように、手を付ければよいかと当惑する。
 当惑のままに、日々が過ぎようとしている。

 理論の伝達・吸収作用が、そのまま
 “中動態的対話(会話)”の実践の体(てい)を成す研修形態は
 稀であると思われるので、
 それを今回よりも更に確固な受け皿とすべく、
 この当惑を腰を据えて乗り越えつつ、
 改めて学びのプログラムを形成して行きたいと思う。

 明年は、6月中に、研修実施の予定。

〈応 答〉 引用
池見隆雄 2021/7/9(金)13:48:18 No.20210709131055 削除
(〇〇さんからいただいたメールへの返信につもりが、
 いつの間にやら、“書き込み”へ変状してしまいました。
 ○○さん、ご免なさい。)

 私自身もそうであったわけですが、
 ふいに『エチカ』から手を付けるのは、かなり厳しいと思います。
 國分さんのNHKの教則本は入りやすく、
 且つ、スピノザ哲学のエッセンスに触れている良書かと思いますが、
 もし○○さんが、今少しスピノザに親近してみようと志されるなら、
 同じ國分さんの『中動態の世界』をお勧めしたくなります。

 これは現在は失われている“態”(「能動・受動」に対する)の意義探求に
 主題を置く書物ではありますが、
 その態とスピノザの哲学の性格とは不即不離の関係にあり、
 事実、第八章は、スピノザのそれへ割かれており、
 この章が、私には、絶好のスピノザ入門に価すると思えるのです。

 それのみならず、「中動態」ひいてはスピノザ哲学は、
 人格変化を考える上で、ロジャーズやジェンドリンへも通ずる要素を秘めており、
 その面でも、○○さん、あるいは△△さんにとって関心深いものではないかと。

 『中動態の世界』も骨っぽいといいますか、決してスラスラ読める代物でないですが、
 謎が一つずつ明かされて行く、ミステリー的な構造につい引き込まれてしまいます。
 というより、著者の解明への熱情にあてられるというべきか。

 ここまで書いたところで、
 ドゥルーズ著『スピノザ』の、序としての引用が思い浮かびました、
 長めですが、これは是非ご紹介したく。マラマッド作『修理屋』より。

  ――どうしておまえがスピノザを読む気になったのか、ひとつそのわけから聞くとしよう。
  スピノザもユダヤ人だったからかね。
  ――いえ閣下、そうではありません。
  あの本に出くわしたときには、ユダヤ人だということさえ知りませんでした。
  それに伝記をお読みになっていればおわかりでしょうが、
  シナゴークではスピノザは嫌われ者も同然です。
  あの本は近くの町のくず屋で見つけて1コペックで買ったのですが、
  そのときは、あんなに稼ぐのに苦労した金をむだづかいしてしまってと半分後悔していました。
  しばらくたってからぱらぱら読んでみているうちに、
  急にまるでつむじ風にでも吹かれたようになって、そのまま読みつづけてしまったのです。
  さっきも申しましたように、私には全部理解できたわけではありません。
  でも、あんな思想にぶつかったら、誰だって魔女のほうきに乗っかったような気になります。
  あれを読んでからの私は、もうそれまでの私とは同じ人間ではありませんでした……

 この引用へ目を通しつつ、文意を我が身の上に想像し、
 スピノザの著作へ対して跳び上がらんばかりにワクワクさせられたものです。

〈受 動〉 引用
池見 隆雄 2021/7/2(金)17:05:30 No.20210702165345 削除
 サブ(イチの母親)は、事務局の床(カーペット)で爪を研ぐ癖が、
 なかなか改まらない。
 今日はとうとう掌で、彼女の頭を、
 向こうにしてみれば強く叩いてしまった。

 サブは、そのような仕打ちを予期できず、
 頭も心も痛かったろう。

 相手の行動に、反射的に感情的に反応してしまうことを、
 「受動」という。
 ――より自分の本質に添えていれば「能動」、
   あるいは「自由」。

至福を 引用
hikaru 2021/6/28(月)14:51:27 No.20210628143717 削除
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No.1
  また、みつけた。ステキな形だ。

私は、術後性嚢胞の痛みと四六時中付き合っている。
痛みは常にあり、時々やたらと痛い。
これからも、どのように付き合っていけるかな、
返信(2)を読む 最新返信日:2021/7/2(金)12:26:18

〈夏の虫〉 引用
池見隆雄 2021/6/30(水)15:16:11 No.20210630151152 削除
 一昨日から、夏の虫が鳴き出した(「すだく」という表現も)。

 その声と、私のときどきの耳鳴りと、
 とてもよく似通っていて紛らわしい、
 混乱させられる。

 それにしても、双方とも、
 生きていればこそのサウンド。

 こうも言えるか……
 私にとって、夏は耳鳴りの季節。

〈平行関係〉 引用
池見隆雄 2021/6/23(水)15:40:50 No.20210623150505 削除
 先ほど――20分足らずの午睡前くらいから、
 病んでいる左耳に耳鳴りが生じている。

 難聴から回復しきっていないというその生理が基本原因かもしれないが、
 少なくもその契機となったのは、
 私の、何かを書きたい欲求だと思う――ほぼ確信している。

 何かを書きたいのだけれど、
 そのテーマなり題材がまだ見えていない。
 この耳鳴りの奥から何か、せり上がって来ようとする圧を、
 堪えている具合がそれを証(あかし)しているように思う。

 欲求があるのに、その対象が具体性を欠いていては、
 居たたまれなさが募る。
 言い換えれば、心身の隅々へ、緊張が漲(みなぎ)り渡る。
 病んでいるがゆえに鋭敏になっている左耳の神経が、
 優先的にその事態へ反応する。
 大方、耳鳴りは、その表現なのである。


 さて、以上、ささやかに綴ったことによって、
 私の緊張は、幾分変化―緩和されたようだ、
 何より、耳鳴りが鎮まってきつつある。

 一昨日の投稿、〈好日〉中に、ある方の言葉、
 「どうせ変わるんだから、今は、これで良いんだ」を引用したが、
 事態をこのように観念でなぞってみることも、
 この今を、良しとすることの一方法に充当されるのかもしれない。

 ある方は、「今を良しとすれば、良い方へ変化する」
 とも 付言されていたのだった。

 表現の素純さゆえに、ある人のこの言葉が
 安易・平俗に受け取られはしまいかとの老婆心から、
 スピノザ関連の著作へ、事態(事物の集合)と観念との平行関係への言及を求めてみるなら、

  「事物と観念とは同じ存在であり、
   同じひとつの存在が別の仕方で考えられた、 
   あるいは別の仕方で現れたものである・・・」
 あるいは、
  「存在するのはこの実体(神・自然)とその変状だけであり、
   この変状が延長の属性において考えられれば事物、
   思惟の属性において考えられれば観念と言われる」
       (いずれも、国分功一郎著『スピノザの方法』より)

 また、“変わる(変化)”は、属性の有する絶対要件。

 (参考)「仏教は思考と存在を分けて考えることがない」
       (鈴木大拙著『大乗仏教概論』より)

〈好 日〉 引用
池見隆雄 2021/6/21(月)15:13:39 No.20210621145109 削除
 今月の5日で、私の突発性難聴は、治癒と認められた、
 医師の口吻そのままは、
 「もう(治療を)止めてもいいんじゃないか」。 
 しかし、私は、気休めあるいはお守り代わりに、
 薬剤は出して欲しい気持ちを表明した。

 もちろん、治癒は、私にとって嬉しいことに違いなかった。
 また音楽へ耳傾けられる。
 何よりエンカウンター・グループに身を置ける。
 しかし、それを裏返せば、再発したらという不安。
 また、(治癒という)目標を失ってしまった虚ろさも認められた、
 何しろ5ヶ月以上、言うに言われぬ辛酸をなめてきたのだ。

 それから12日後の夕方、私は、当の左耳に異変を感じ取った。
 再発? 動揺は少なくなかった。
 不意に目の前に、暗幕が引き下ろされたかのように、
 日常世界が、再び自分から遠のいて行く空恐ろしさを味わいかけた。

 しかし、偶々、その同じ日、ある人から、
 「どうせ変わるんだから、今は、これで良いんだ」
 という、その人の、いわば悟りの一端をプレゼントされていた。

 翌日、耳鼻科を受診すると、左耳の聴力は、明らかにダウンしていた。
 馴染みの看護師さんが、「せっかく治っていたのに・・・・」と
 気の毒がっているのではないが故に、むしろ、
 「また回復するわよ」の意味合いを通わせる言葉を掛けてくれた。

 職場で机を前にしたとき、
 私はむしろ、希望の光さえ抱いていた、
 ――これから私は変わって行くんだ、変わって行くのみ と。

だんご 引用
hikaru 2021/6/10(木)13:39:41 No.20210610133630 削除
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No.1
  開いてきた花びらの中に、これから開く花びらのお団子あり。
返信(1)を読む 最新返信日:2021/6/10(木)19:28:43

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