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翠嵐6期生憩いの広場

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とんがりの系譜 9 (山小屋を作ろう)
by どか at 2018/12/1(土) 17:53:53 No.20181201175131 コメント】  削除 引用

リーダーのチョウさんからこの会もいつまでも続けないで10回でけじめをつけ皆で山小屋を持とうよ! 提案されたのは第6回夏の会の頃だったと思う。
そんな大きなことが出来るのか、何を言い出すのだ、くらいに受け止めたがなんと夢のある話だろうと感じ入ったのを覚えている。
いつ山小屋が持てるのかなんて誰にも信じられないような話だったが
この時すぐに始まったのが一家について月5000円の積み立ての徴収だった。
賛同者十数人による年6万円の積み立てが即時開始された。



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タケルさんへ
by どか at 2018/11/24(土) 21:39:18 No.20181124213236 コメント】  削除 引用

とんがりの系譜にコメント入れてくれたタケルさん。
ありがとう。「もしかして、これに私、写ってる?
昭和45年? 」のコメントうれしかった。どうしてここへたどり着けたんでしょう?
ところでどなた?アグさん家のタケルさんでしょうか。
写真に写ってるはずですが沢山の子供が写っており見定めることが出来かねます。

とんがりの系譜 8 <第10回夏の会>
by どか at 2018/11/20(火) 19:56:02 No.20181120195433 コメント】  削除 引用

「このキャンプ会は10回でけりをつけ、以降はまた別の何かを考えようよ。」というのが合意されていた。
参加者は年々増え続け最後の夏の会は参加者は百名を超えた。
どこで聞きつけたか神奈川新聞社の記者も参加し、帰ったら一面の特集記事となっていた。
毎回いろいろな企画が試されたがこの会にはにぎり寿司が出現した。
このためには寿司屋を回って研究を重ねてきたし何度か実施訓練もやった。
河原に組み立てたテーブルの前に何人かの寿司職人?が「らっしゃい!」と声を張り上げて好評を得た。


とんがりの系譜 7
by どか at 2018/11/6(火) 22:36:27 No.20181106223436 コメント】  削除 引用
2004 x 1428 x 208,507バイト <この画像は大きいので別画面で表示します>
No.1

写真は夏の会の記念写真を掲載させてもらった。
昭和35年からの10年間毎夏会員の家族がここ世附川のキャンプ地に集まり数日を共同生活で楽しんだ。
仕事のあるものは早起きしてここから会社へ出かけて行った。
夕立が来そうになると男たちは競ってキミちゃんのテントに駆け付け、奥様達から不満の声が上がったのもこの頃だった。
子供たちは谷の急流に一日遊んでいた。
川又教会の先生方が遊びを指導してくれたり楽しんだ。
キャンプファイヤーは夜はバーKOKAGEと名付けられ久々にトンガリソングを歌い続けるのだった。
子供たちも成長するにつれ家族から独立して子供キャンプ村を設立しそれぞれが食事計画から一貫した行動をとった。当時の流行歌からこの部隊はYMCAと呼ばれた。薪集めや荷物の運搬等を担ってくれた。。


1.  タケル > 2018/11/23(金) 15:51:58
もしかして、これに私、写ってる?
昭和45年?
『翔ぶが如く』を読む(22)
by かおる at 2018/11/1(木) 10:59:23 No.20181101103003 コメント】  削除 引用

[征台中止の命令] 長崎には西郷従道と台湾遠征の事務長官である参議の大蔵卿大隈重信が滞留していた。そこへ太政大臣三条実美から

征台中止の手紙が届いた。手紙には米国公使が汽船を使わせない、米人を征台の顧問に使うなと言ってきている。在日外交団の公論は

台湾が清国の版図であるから、征台をするには清国の了解を得てからでなければならない。西郷従道都督にはすべて後命を待つように

通達してもらいたい。と書かれていた。大隈はすぐに了解して西郷を訪ねた。ところが従道は、何が何でも征台の軍を出さなければ

兄の隆盛を瞞着したことになり、その結果がいかなる惨状を生むか計り知れぬと思っていた。太政大臣が何を言おうとも、従道は出兵の

勅文を持っていたので大臣の命令を無視した。
『翔ぶが如く』を読む(21)
by かおる at 2018/10/23(火) 14:49:14 No.20181023141756 コメント】  削除 引用

[お抱え外国人の口車に乗せられた台湾出兵] 当時、日本に駐箚(ちゅうさつ、駐在に同意)する各国の外交団は明治政府をまともな政府の

ようには扱っていなかった。その無知を軽侮した。1868年に政府が樹立した後、政権は不安定で各地の不平分子の台頭にびくびくしていると

いう政府の現状からみて、外交団が嘲笑と軽蔑を持って接して来たのも無理はなかった。中国が日本の暴挙を傍観するはずがない、すでに

中国はイギリスの指導で艦船を新造していた。日本は遠征に必要な艦船をほとんど持っていなかった。信じがたいことに、日本政府は現地に

調査もしておらず、高砂族がどこに居るかは地図で知るだけだった。すべてがお雇い米国人リ・ゼンドル任せで彼の口車一つで勅語まで出て

陸軍中将西郷従道が兵を率いて台湾へ出かけていくのである。
とんがりの系譜 7   <夏の会発足>
by どか at 2018/10/19(金) 22:02:46 No.20181019215952 コメント】  削除 引用

同期生が多数占めていたという事は、その卒業・就職によって会の活動は急速に低下していったことは当然のことといえる。
その後も後輩たちの精鋭部隊が難関な山々を次々制覇していってくれたが会全体の動きはいかんせん低調にならざるを得なかった。
社会人となった会員たちには、次に結婚・育児が待っていた。山へ行く回数は遠のくばかりだった。
このころ会員同士の結婚は4組となり、後輩たちの分も加えると6組のカップルが成立し皆からの祝福をうけた。
トップバッターのよっちゃん・チー坊のカップルは氷川丸の一室を借りて皆で祝賀パーティを催した。

昭和29年〜30年、会員の結婚ラッシュとなり全員が家庭を持つこととなっていった。
子育てが始まっていたこの頃、何か満ち足りない感覚に襲われたのかよちよち歩きの子供を連れたファミリーが丹沢キャンプを始めた。
年を追って参加者は増えるばかり、毎年8月実施のこのキャンプは夏の会と命名され昭和35年から10年間続いた。
キャンプ地は西丹沢、世附川の自然たっぷりの別天地を県の許可を取って使わせてもらい入路も林道の一つを使わせてもらった。
キャンプの準備にはパパたちが現地にトイレやドラム缶風呂を事前に建設、野生豊かなキャンプ村として楽しんだ。



『翔ぶが如く』を読む(20)
by かおる at 2018/10/11(木) 10:49:44 No.20181011101806 コメント】  削除 引用

[大久保と西郷従道が征台を遂行した理由] 一旦消えてしまった征台案は西郷が下野した後、大久保と西郷従道が取り上げたのである。

大久保は台湾が欲しいのでもなく、高砂族が憎くもなく、外征もしたくなかった。要するにせめて台湾の生蕃でも討って国内の征韓論の

沸騰を鎮めたいという発想から出ていた。西郷従道は兄の西郷を取り巻いている薩摩士族たちを鎮静させるための策だった。台湾出兵の

希望者を募るそうすれば連中の気も和むに違いない、台湾に出兵すれば、政府の腰抜けだという彼らの印象を薄められるという思惑があった。

参議木戸孝允も山県有朋も征台論に反対した。参議の大蔵卿大隈重信が大久保に説得されて、征台の準備を進めているとき佐賀の乱が勃発し

てしまった。計画が頓挫するかに見えたが大久保は自ら九州へ行き佐賀の乱を鎮圧する総指揮をとった。従道が随行した。台湾へ出兵しよう

とした矢先、横浜で発行されている英字紙ジャパン・ヘラルドが騒ぎ出した。「日本政府は極秘裏に台湾を外征すべく準備を進めている。と
北アルプスの山々
by どか at 2018/10/7(日) 22:47:05 No.20181007224255 コメント】  削除 引用
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No.1
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No.2

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No.3
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No.4


もうすぐ台風がやってくる、ツアーをキャンセルすれば代金は戻ってこない。
もう今年が最後だからと思い切って参加したフルムーンツアーだった。
東海道新幹線は運転見合わせだったが北陸新幹線は平常運転。エーイままよと出かけたのが良かった。
立山ケーブルから黒部アルペンルート・上高地三日間のツアーは奇跡的に好天に恵まれた。
剣岳・別山・立山・赤岩山・針の木・爺岳・鹿島槍・蝶・不帰・常念・有明・穂高・焼岳、北のほとんどの山を目に焼き付けてきた。
剣、立山、針ノ木・上高地の写真を掲げました。


1.  ひろみ > 2018/10/11(木) 10:17:21
ラッキーでしたね。写真の説明が一言欲しいです。
『翔ぶが如く』を読む(19)
by かおる at 2018/9/30(日) 14:51:58 No.20180930135801 コメント】  削除 引用

[台湾への出兵] 明治4年10月に宮古島の船が暴風で台湾南部に漂着したところ、大勢の乗組員が先住民高砂族に虐殺されてしまった。この

報復を鹿児島県参事大山綱良や樺山資紀(すけのり)等が台湾出兵を唱えた。熊本鎮台司令官桐野利秋も上京して西郷に話し出兵に賛同を

得た。征台策の中心は副島外務卿であった。彼は台湾は昔、日本の領地だったと思っていたからこの際取り戻してしまおうと考えた。

太政官において正式の会議になったのは、事件発生後1年経った明治5年11月である。議論は反対論と自重論が多かった。そもそも国際慣行

に不慣れで明治政府は解決の方法が分からなかった。ところが、厦門の米領事リ・ゼンドルがこの事件を知り駐日公使デ・ロングに問題を

提起して副島外務卿に台湾打つべしと建言した。副島は明治6年3月から7月まで、清国に全権大使として行き交渉した結果、台湾の蛮人の

やったことに清国は責任は届かないので、被害のあった国が直接行動を起こしてもいいことになった。台湾出兵をやるについての外交的基礎

は得たとした。副島外務卿が清国から帰国してみると太政官は西郷の主唱する征韓論で沸き返っていた。外遊してきた大久保、木戸、岩倉等

と西郷が対立して遂に西郷が辞表を出した。副島、板垣、後藤、江藤の4人の参議も辞表を出した。こうした争議で副島の征台策は潰れて

しまった。


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