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翠嵐6期生憩いの広場

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『翔ぶが如く』を読む(8)
by かおる at 2018/4/25(水) 10:07:12 No.20180425090442 コメント】  削除 引用

いよいよ征韓論について書いていこう。[征韓論について] この議論が太政官の廟議にかけられたのは明治6年6月12日である。西郷は健康

がすぐれず少し歩くと息切れがし心臓に圧迫感がした。家族を呼び寄せていないので弟従道の屋敷に世話になっていた。この会議に6人の

参議が出席した。西郷をはじめ土佐の板垣退助、後藤象次郎、肥前佐賀の大隈重信、大木喬任(たかとう)、江藤新平である。議長として

公卿の三条実美が出た。急先鋒は板垣で朝鮮国の暴慢はもはや極みに達している(朝鮮への折衝は明治初年から6年続いていた)ただちに

朝半島に兵を送るべきである。西郷はむしろ温和で断じて軍事行動は不可であると反対した。まず特命全権大使を送り、朝鮮側と話し合い

それでもなお朝鮮側が聞き入れなければ世界に義を明らかにして出兵するといった。全権大使もペリーのごとく軍艦で出かけたり護衛部隊

を連れていったりしない、一切兵器を持たずに韓都へ乗り込む、あるいは殺されるかもしれないがその役は私にやらせてもらいたいと西郷は

言った。


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『翔ぶが如く』を読む(7)
by かおる at 2018/4/17(火) 21:34:56 No.20180417205058 コメント】  削除 引用

[明治六年の政変] 1873年(明治6年)にはそれまで留守政府と洋行組(岩倉使節団)に分かれながらもなんとか一枚岩を保っていた明治政府

が二つに分裂した。これを明治六年の政変と呼ぶ。この分裂の起こった理由は征韓論だとされている。この時期日本では征韓論が沸騰してい

た。西郷はその渦中にいた。西郷がこの渦を巻き起こした張本人のように見られている、事実、西郷がこの正論の中心にいなければこれほど

の騒ぎにならなかったに違いない。といって西郷の心境は複雑で彼は扇動者というより逆に桐野ら将校たちが「朝鮮征すべし」と騒いでい

るのに対し、「噴火山上に昼寝をしているような心境」と書いているように自分の昼寝によってかろうじて壮士的軍人の暴走を抑えているつ

もりであった。桐野利秋は暴走派の親玉である。「二個大隊でよか」俺は二個大隊を釜山の岸につけ、鶏林八道(朝鮮の別称)をまっしぐら

に突き進んで朝鮮王を謝らせてみせると豪語していた。明治初年の政界を大混乱に陥れた征韓論というのはごく単純な事情から出た。日本だ

けが維新を起こし開国したのである。朝鮮は鎖国のままであった。貴国も開国せよと余計な忠告の国士を朝鮮に送りつけた。折衝は明治初年

から足かけ6年続いた、朝鮮側は毎度峻拒し、毎度罵倒した。結局は日本の壮士気分を激発させる結果になった。

明治村
by どか at 2018/4/10(火) 22:15:07 No.20180410221158 コメント】  削除 引用
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No.1
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No.2

名古屋に行く機会があって明治村に立ち寄った

興味をそそったのは「西郷縦道邸」(No1)と明治期の陸軍「鎮台の兵舎」(No2)があったこと。

私もいま司馬遼太郎の「跳ぶが如く」を5巻まで読み終わったところで、維新時の様子が実感できて楽しかった。

今年限りの桜に会わん
by ひろみ at 2018/4/1(日) 19:31:04 No.20180401184140 コメント】  削除 引用
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No.1

幸ヶ谷公園の桜(ソメイヨシノ)が倒木の危険があるので伐採されると知って、今年限りの花を眺めなくてはと

公園に行った。花見といってもペットボトルのお茶を一本持って公園を通り過ぎただけだった。桜の木が外見か

らもわかるように枝が折れて、幹に大きな穴が開いているのもあった。花の下に立って、目を花に近づけると開

いた花弁の中に吸い込まれそうな錯覚に捉われた。びっしりと幾重にも重なった花弁の奥に吸い込まれて噎せっ

ていた。生物学的に考えると、桜は花の数が咲き過ぎである。こんなに咲く必要はない。花は植物の生殖器であ

る。こんなに生殖器があるのは異常である。しかも、この花は子孫を残す能力がない。ソメイヨシノは実を結ば

ない、もともとは全部一本の株から人工的につくられたクローン植物なのである。クローン植物だから桜前線が

近づくと一斉に咲きだす。この公園の桜は6月から伐採が始まり代わりにジンダイアケボノが植えられるよう

だ、最後の花見かと寂しくなった。「また来ん春」に会うことを祈るとしよう。
『翔ぶが如く』を読む(6)
by かおる at 2018/3/28(水) 17:31:45 No.20180328161200 コメント】  削除 引用
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No.1

この小説と併読して井沢元彦著「逆説の日本史22」を読んでみる。[通貨制度を改革した大隈重信] 明治新政府

は明治4年7/14日に廃藩置県を断行して政府の形を整えたものの、この先どのように国造りを進めていくか全く

決まっていなかった。この頃、佐賀藩の大隈重信がアメリカ人宣教師グイッド・フルベッキの助言で欧米使節団

を送るように建言した。この時の最高権力者岩倉具視、大久保利通、木戸孝允等は洋行の経験がなくこの際自身

の目で外国を確かめようと思った。国家の形成期に最高権力の座にいる人々が国を離れるというのは極めて無責

任だという考えもあるが、それでも岩倉らがそうせざるを得なかったのは日本が遅れていたからであった。結局

この使節団は1年10か月後に帰国する。その間日本を留守にした。留守政府の名目上のトップは参議の西郷隆盛で

あった。同じく参議の大隈重信、井上馨、山県有朋が残ったが、留守政府が勝手なことをしないよう約定が取り交わされていた。国内の

改革は使節団が帰国してから行うので、新規の改正はしないと使節団が戻るまでは大胆なことはしてはならないと釘を刺している。ただ、

廃藩置県に関する改正は行ってもいいことになっていたので、留守政府の大隈は金、銀、銅貨を鋳造し、ドイツに依頼して百円札から十銭札

まで揃えた。留守政府は太政官札や江戸時代の貨幣を回収し、近代国家としての通貨制度を整備した。(逆説の日本史22、第2章明治政府の

グランドデザインより)
横浜のさくら
by どか at 2018/3/26(月) 18:48:18 No.20180326184152 コメント】  削除 引用
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No.1
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No.2

No1元町公園

No2東神奈川 金蔵院の枝垂れ桜

その他、三ツ沢公園、反町公園、幸ヶ谷公園、一斉に満開となった
『翔ぶが如く』を読む(5)
by かおる at 2018/3/21(水) 12:12:38 No.20180321111610 コメント】  削除 引用

[桐野利秋のこと] この小説では人物を物語の中に自然に登場させている。桐野の場合もこんな風に登場させた。川路が帰朝報告に西郷を

訪ねて、その寓所に行くと下僕が不器用な手つきで茶を運んできた。「茶どん、飲まんか」と桐野が顎でしゃくったのは、川路にとって

笑止千万であった。桐野はこの西郷の寓所を自分の家のようにして振舞っているのである。(こん和郎は、西郷さアを独り占めしちょる気

じゃど)と川路は肚の中で苦り切ったが、しかし顔つきだけは無表情でいた。桐野は外遊したことはなかったがひどく西洋人臭い男でフランス

の貴族の騎兵連隊長で、独身の遊び者といった何か天性の豪儀さを身につけていた。彼が幕末の京都で活躍したころ、薩摩の中村といえば

新選組でも道をよけた。随分人を斬ったがそのすさまじさは常に一撃で相手を斃してしまっている。しかも歩き足のまま抜刀し、歩き足の

まま刀を構え、斬っても歩き足を止めず、斃した後も歩き続けるという典型的な示現流剣法の使い手で「人斬り半次郎」と異名で知られた。

維新後いきなり陸軍少将になったのは西郷の引き立てによるものであった。西郷は戊辰戦争でとびぬけた勇敢さと聡明さを兼ね備えた二人の

男をえり抜いていた。二人とは桐野と川路である。西郷は桐野を陸軍少将にして近衛兵を率いさせ、川路は後に言う大警視にして警察を率い

させ東京の治安を担当させた。

『翔ぶが如く』」を読む(4)
by かおる at 2018/3/17(土) 07:18:04 No.20180317062725 コメント】  削除 引用

[日本橋小網町の西郷] 川路が帰国した頃、西郷は日本橋小網町の旧酒井雅楽頭の中屋敷に書生同然の姿で住んでいた。江戸が東京に変わっ

たというありようは、大名や旗本の何千、何万坪という宏大な屋敷に新時代の権力者が入り込んで住み始めたということであろう。日本橋川

の北岸一角が小網町でそこに長いなまこ塀が思案橋あたりから汐留橋までずっと続いている。「いまは薩州の軍人や書生やらが群れて住んで

いるらしい」と噂があったが当主の名前は知られていない。時々大男が門のくぐりから出てくる。紋服に羽織袴という姿だったり、薩摩絣の

着流しに脇差を一本帯びているという恰好だったりした。頭は丸坊主で太い眉の下にぎょろっと光る大目玉を持っていて海賊の大頭目のよ

うでもある。これが西郷参議であった。西郷は屋敷の全部を使わず長屋の一角だけを居所にしており、郷里から妻子を呼び寄せていなかった。

西郷にとって新政府の大官という栄誉は身に着けてしまう存念がなかったように思われる。


『翔ぶが如く』を読む(3)
by かおる at 2018/3/8(木) 19:12:54 No.20180308183409 コメント】  削除 引用

[両雄の屹立] 「まだ措辞が整っておりませんが」と帰国の船中で書いた意見書を江藤の手元に差し出した。江藤は一読して露骨に不快の色

を浮かべた。「西洋各国においてその首府の警保寮(治安機関)は直に内務省に属し府下の警保を管掌せり」という一句を凝視した。それに

よると行政警察は内務省に属すべきで行政権と司法権は別個のものだと。ところが日本には内務省が存在しなかった。だから設けるべきで

ある。と川路は意見書に書いた。江藤はこれが不満だった。やがてこの不満が翌年の佐賀の乱につながりその刑死へつながってゆく。江藤は

内務省など当分不要だと反対であった。ところが彼にとって政敵である薩摩人の大久保利通がすでに内務省設立を進めていた。大久保は

明治4年の暮れから明治6年5月まで、欧米を視察して帰り内務省の必要を感じ、自ら内務省を設立しそれをてこにして新国家を造ろうとして

いた。江藤も司法省をてこにして新国家を造ろうとしていた。しかし、不幸なことに両者は犬猿の仲で互いに連絡はない。この大久保と江藤

の他の大官たちは、国家の骨格を作り上げるような青写真を持っておらず能力もなかった。両雄が屹立して互いに異なる日本を造り上げよう

としていた。「川路君この意見は私が預かる。大久保君には見せるな」と江藤は言った。「それは困ります」と拒否した。川路は上司である

江藤司法卿につくべきか、同郷の大久保につくべきか悩んだ。

『翔ぶが如く」を読む(2)
by かおる at 2018/3/6(火) 09:59:16 No.20180306091157 コメント】  削除 引用

引き続き川路利良のことを書く。帰国の船中でフランスの制度に真似て首都警察を創る建議書を書き上げていた。川路はフランスにおいて

国家学というものの存在を知った。国家の基本を成立せしめているものは法律でありその執行機関の一つとして警察が重視されていることを

知った。それをどう説明するか悩んだ。江戸体制では警察は一種の不浄機関とされ、例えば、奉行所の与力や同心という職には正規の幕臣が

つかず、普通一代限りの臨時雇いの身分の者にこれをやらせ不浄役人と呼んだ。また、江戸町奉行が二人いたように幕府や藩にあってはあら

ゆる職の責任者は必ず複数で一人に権力や義務が集中しないようにした。要するに複数で合議制の上に権力や職責をふわりと置き、物事が

非能率になったり大事に当たって明快な裁断がされることがないにしても失敗が少なくなることを期待して、無事であることが一番大事に

されていた。それが明治初年の政府にも引き継がれていた。江藤新平(佐賀藩出身)が明治5年に司法卿に就任する迄は、日本の司法制度は

旧藩時代と同様に府県知事が司法権を握っていた。江藤は就任してこれを一変させた。川路が帰国した頃には江藤は省を挙げて西洋の民法

及び刑法の翻訳を進めており民生の保護と人権の尊重という在来日本になかった思想を新たに施行すべき法律に盛り込もうとしていた。

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