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翠嵐6期生憩いの広場

掲示板、6期生の広場への書き込みをお願いします。
ひきこもりはいけません、お出かけください,人とのコミュニケーションを大切に。
一歩外へ出て、一汗かくことがこれからの幸せにつながります、恥ずかしさは捨ててチャレンジしてみてください。
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ページ 1 (1〜10)

『翔ぶが如く』を読む(11)
by かおる at 2018/6/16(土) 10:46:24 No.20180616101752 コメント】  削除 引用

[武士の世の終焉を意味する廃藩置県] 誰もが武士の世が去ることを知って、鳥羽伏見で徳川軍の弾雨の中を突撃したわけではなく、北越で

頑強な長岡藩の抵抗に危うく敗れそうになるまで戦ったわけでもなく、また東北の山野に屍を曝したわけでもなかった。もしそうと分かって

いれば銃をとらない連中も出たに相違なく、第一、薩摩の島津久光が兵を出すことを拒絶したであろう。久光は誰よりも封建制の保持を頑固

に思い続けた人である。廃藩などとてもできるものでない。日本通の英国公使パークスでさえ思っていた。大久保は薩摩出身だけにこのこと

をはよく知っていた。彼はいっさい廃藩置県を言わなかった。すべて長州派がそれを主唱するに任せていた。もし大久保がこれを言い出せ

ば久光の側近の者が直ちに大久保を切り捨てたであろう。大久保は言わない。すべてこの責任を、西郷に持ち込ませてしまったのである。


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とんがりの系譜
by どか at 2018/6/11(月) 22:19:22 No.20180611221536 コメント】  削除 引用
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No.1

母校山岳部有志が学校を卒業した昭和29年に立ち上げたのがとんがり山岳会である。
設立に携わったのは、7人の侍と呼ばれたいずれも同窓生であった。
この会はその後急速に会員が増加し横浜の山岳会の中でも注目される若い山岳会に育った。
私たち同期生も男性34名・女性11名が在籍し、会員総数は100名を超えていた。
中には麻雀や飲み仲間探しに入会したものもいたかもしれないが、それでも全員が夏の北アルプス合宿や春の丹沢山集中登山には参加している。
山登りにあこがれていた私は、一年浪人を経た翌年この会に入会し登山活動に没頭したことは前回ここに書いてきた。
この年になっても山への信仰は衰えず私にとっての山は生涯のものとなっている。
そしてとんがりのきずなは今はロッヂとんがりにつながって行くのだが、この間のことを終活の一つとして思い浮かべてみたい。

『翔ぶが如く』を読む(10)
by かおる at 2018/5/22(火) 13:08:03 No.20180522124157 コメント】  削除 引用

[西郷は愚者だ] 明治2年1月薩長土肥四藩の主唱で版籍奉還がされた。この時期西郷は鹿児島に居た。彼は戊辰戦争が終わると東京を去って

しまった。東京から再三督促されたが動かなかった。西郷には幕府を倒した後どういう国家を造るべきか具体案が何もなかった。ここで

大隈重信のように西郷愚者説があった。大隈は西郷や板垣を馬鹿だと思っていた。西郷が参議のころ彼は太政官に弁当を食べに来ているよう

なもので、あとは板垣を相手に戊辰戦争の話ばかりしていたという。大隈が西郷を嫌っていたことはあるにしても西郷の一面を言っているこ

とでもある。征韓派と非征韓派の争いは簡単に分けて考えられる。明治4年に出発した岩倉具視以下の洋行組が非征韓論者であり、洋行しな

いで残留した西郷隆盛以下が征韓論を唱えたと言う。海外に出れば一目瞭然に世界の中の日本というものが把握できるはずであり、この時期

に極東で武力紛争を起こせばどうなるかわかるはずであった。洋行組であるにもかかわらず、帰朝後征韓派に走ったのが村田新八である。


1.  甚一くんりんさい > 2018/6/4(月) 09:18:21
甚一くん厚労省文科省大便切り落とす甚一くん立場罷免しますからねいくこつまにちれんしょうしゅうから嫌われております

6期生の息子がアサドラに
by ミーハー at 2018/5/16(水) 10:03:52 No.20180516095838 コメント】  削除 引用

NHK朝ドラ 半分青い にしろう役で出てます。
東根作 をそのまま芸名にしてます。

今日は一年六組の会に出かけます。
『翔ぶが如く』を読む(9)
by かおる at 2018/5/14(月) 09:38:24 No.20180514084436 コメント】  削除 引用

司馬遼太郎は西郷像をいろいろな人との交流接触を通して描き出している。例えば大隈重信についてはこんな風に書いている。

[西郷像はよほどの阿保だ] 明治初年の少壮期の大隈は政治的手腕が高く評価された。佐賀藩の中級藩士の出身でありながら封建的な精神を

全く持っていなかった。生まれついての合理主義者で藩主鍋島家に対しても忠誠心もなく、「葉隠」れについてもばかな教えと一笑した。

彼は外国人を怖がらなかった何かもめごとがあるとブロークンな英語で交渉にあたった。また銭勘定が達者であったので、国家の銭勘定も

できたので珍重され書生の身からたちまち参議に出世した。大隈は西郷に対して痛烈な批判者であった。大隈は西郷をよほどの阿保だとみて

いる。知能的な低さを言っている。大隈のように才略主義というか機鋒の鋭さを誇るという癖は大隈だけでなく肥前佐賀が旧幕以来秀才偏重

主義の方針をとってきたその藩出身者の通癖でもあった。参議司法卿の江藤新平も大隈そっくりの癖があった。反対に西郷はその才略や

機鋒を内に秘めて露(あらわ)(原文のまま)さないという性格であったが、意識的に心がけていた。単純に言えば政治は才略よりも人格で

あると考えていた。そのことが大隈には愚物に見えた。確かに西郷には愚物の面もあった。「西郷はやたらに新政府に人を推薦してきたが

その殆どがろくでもない連中だった。各省へどんどん人を推挙してくる野放図な人柄の甘さを大隈は嫌った。その甘さが西郷の魅力である

ことを大隈は気づかなかった。
征韓論を最初に提唱したのは対馬藩士と木戸孝允
by かおる at 2018/5/6(日) 16:10:31 No.20180506151841 コメント】  削除 引用

引き続いて『西郷隆盛』家近良樹著を読んでいく。天皇政府からの国交樹立を求める使節役を務めたのが対馬藩であった。この藩は鎖国の

時代から朝鮮との貿易を行い日朝間の橋渡しをしていた。征韓論を最初に言い出したのは対馬藩だった。それは対朝交易が次第に不振と

なり藩財政が苦しくなったので、対馬藩士大島友之充が釜山の倭館のみで行っていた貿易の拡大を図ろうと画策した。それが武力を使って

でも朝鮮へ進出しようとする論となった。大島は長州藩の木戸孝允と接触を深め、明治2年1月に木戸が政府内で熱心に征韓論を唱えた。

木戸は朝鮮問題の解決を自らの任と決めて、明治3年春に中国・朝鮮への派遣が命じられた。ところが中国で民衆の騒擾が発生したため、

木戸はこれを理由に中国・朝鮮への派遣を変更して欧米行きを志願したのである。その後、明治3年10月に吉岡弘毅(外務権少丞)ら外務省

の役人が派遣されたが事態は進展しなかった。明治4年になると樺太問題の発生や廃藩置県が実施されたことで朝鮮との交渉は一時休止状態

になった。そして岩倉使節団が欧米各国に派遣されることになり、朝鮮問題については使節団の帰国後まで凍結することにした。

西郷はこの問題に関わっていなかった。
『西郷隆盛』家近良樹著を読む
by かおる at 2018/5/4(金) 11:19:29 No.20180504102636 コメント】  削除 引用
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No.1

[西郷が朝鮮問題に関心を持つようになったのは何時か]西郷の突然の朝鮮使節志願は、今でも西郷の謎に関する

最たるものとして、論争の対象になっている。この西郷の朝鮮使節志願は俗に「征韓論政変」と称され、西郷の

希望に対して大久保らが強く反対し、擦った揉んだの挙句に、自分の望みが叶えられそうにないと判断した西郷

が下野する事態となった。西郷が朝鮮問題に関心を持ちだしたのは、明治5年8月に外務省の池上四郎に清国へ派

遣、別府晋介と北村重頼に朝鮮の探索が命じられたこと、これは中国、朝鮮、ロシヤの形勢を探る命令であ

り、外務卿副島と西郷、板垣の両者の指示によるものであった。こうした外交官や武官の派遣が西郷がこの明治

5年の時点で征韓の準備に着手したと見られる。西郷が朝鮮使節を志願したのは明治6年7月のことで、これはそもそも幕府が瓦解して外交権

が将軍から天皇へ移行したことによった。つまり維新政府は李氏朝鮮に対し天皇の政府が樹立したことを告げ承認を求めた。また、鎖国政策

をとっていた朝鮮に開国を勧めた。
初めての陶芸教室
by doka at 2018/5/2(水) 22:28:52 No.20180502222427 コメント】  削除 引用
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No.2

連休初日、珍しく温泉旅行に出かけることとなった。
急に決まった旅行だったが子供・孫3世代6人の湯河原行きは楽しかった。町の陶芸教室に予約をしておいてくれたのでみんなで作品に挑戦することとなった。
此処のろくろは手回しの物で素朴な手作りらしい小皿を2時間余り粘土をこねて作り上げてきた。
最後に絵付けをして焼き上げを依頼してきたのだが、久しぶりに充実した時間が持てた。


アクセス数、異常増の件
by 管理人 at 2018/5/1(火) 21:39:07 No.20180501213718 コメント】  削除 引用

お気づきの方もあったかと思いますが、去る4月27日この掲示板の閲覧回数が異常上昇いたしました。11時台⇒699回、12時台⇒537回のアクセスがありこの日のトータルは1253回となり、利用者中ダントツを記録しました。
その後注意深く観察してますが通常処理に戻っていますので一時的な何かの間違いと思われますのでご安心願います。
ちなみに、この異常値は南北首脳会談の真っ最中の2時間に限られておりました。


『翔ぶが如く』を読む(8)
by かおる at 2018/4/25(水) 10:07:12 No.20180425090442 コメント】  削除 引用

いよいよ征韓論について書いていこう。[征韓論について] この議論が太政官の廟議にかけられたのは明治6年6月12日である。西郷は健康

がすぐれず少し歩くと息切れがし心臓に圧迫感がした。家族を呼び寄せていないので弟従道の屋敷に世話になっていた。この会議に6人の

参議が出席した。西郷をはじめ土佐の板垣退助、後藤象次郎、肥前佐賀の大隈重信、大木喬任(たかとう)、江藤新平である。議長として

公卿の三条実美が出た。急先鋒は板垣で朝鮮国の暴慢はもはや極みに達している(朝鮮への折衝は明治初年から6年続いていた)ただちに

朝半島に兵を送るべきである。西郷はむしろ温和で断じて軍事行動は不可であると反対した。まず特命全権大使を送り、朝鮮側と話し合い

それでもなお朝鮮側が聞き入れなければ世界に義を明らかにして出兵するといった。全権大使もペリーのごとく軍艦で出かけたり護衛部隊

を連れていったりしない、一切兵器を持たずに韓都へ乗り込む、あるいは殺されるかもしれないがその役は私にやらせてもらいたいと西郷は

言った。


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