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翠嵐6期生憩いの広場

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『翔ぶが如く』を読む(18)
by かおる at 2018/8/15(水) 16:32:58 No.20180815155406 コメント】  削除 引用

[西郷の苦悩] しかし西郷には彼が擁立した明治帝という年少の天皇がいた。この天皇を捨てて自殺することもできず、結局明治5年6月に

天皇の鹿児島行幸に供奉した。天皇に行ってもらうことによって、国許の久光の怒りを解ければという気持ちがあった。西郷の不幸は、それ

でもなお旧主久光の怒りを解くことが出来なかったことである。西郷は個人的窮境の中にあり、折から征韓論が発生したとき「自分はこれで

死のう」と死所をそこに見出したのだと大隈は見ていた。西郷は革命の成功者でありながら、革命が引き起こした夥しい惨禍を一身に引き

受けようとしたのである。革命の成功者は革命の果実を貪り食ってよく、貪らないまでも、革命政権側に立って、革命によって悲鳴を上げ

ている既成階級の悲惨さを冷然と見下ろす方がむしろ革命的正義であり、その既成階級がやがて群がり起こって反革命運動で騒ぐとき、それ

に対して猛然と新政府軍を発して攻撃し、殲滅するのが革命家の正義であった。「反革命層の方が哀れだ」という革命家がどこにあるであろ

う。ところが西郷の心情は維新によって没落した士族階級への憐憫に向けたのである。西郷は全国300万人と言われる没落士族を救う道は

外征以外にないと見た。


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とんがりの系譜 3
by どか at 2018/8/11(土) 13:46:56 No.20180811134516 コメント】  削除 引用

今日は初めての山の日とか、新しい祝日となった。

とんがりでは、当初から月に一度会員全員での定例会合が開かれており、ここですべての計画が決議されていた。
西口の貸座敷があってそこに毎月集まった。
会所有のテント等山道具も増加しており仲間の集会場所を求める声が切実になってきたとき、
会員のアグさんのアパートの一室をかなり無理をして借り受けることにしたのだった。
私たちはルームと名付けみんなと毎夜遅くまでこの部屋で過ごした。
誰もいないときはルームノートに思いを書き綴って帰ったりもした。
空のトリスの瓶が転がっていた。

とんがりの系譜2
by どか at 2018/8/2(木) 18:31:22 No.20180802183013 コメント】  削除 引用

前回、同期生男性34名・女性11名がとんがりに在籍していたと書いたが、母校後輩たちも10人が在籍した。
ちょうど三人寄れば山岳会ともいわれた登山ブームの時代と重なり会員は増加していった。山岳雑誌等の消息欄を見てくる人も多かった。
会名は、丹沢の山稼の言葉で山の山頂を意味する「とんがり」となったとのことで今は丹沢のロッヂとんがりにこの名称が引き継がれている。

『翔ぶが如く』を読む(17)
by かおる at 2018/7/26(木) 11:17:14 No.20180726102450 コメント】  削除 引用

『翔ぶが如く』は長編なので小生は勝手に小見出しをつけている。ここのところは(一)の征韓論の一部であるが[明治維新の悲劇]とした。

維新という革命の見返りは何もなかった。それは全てを失ったことだ。と日本中の士族が喚き上げようとしている時期である。武士階級が

消滅したということで,鹿児島県士族にとってこれほど馬鹿馬鹿しいことはない。戊辰戦争で命を的にして関東、北越、東北、北海道と

転戦したのは鹿児島県士族である。その何割かが東京駐屯の近衛兵になったり、警視庁に入って俸給をもらうことができたがあとは全て失業

した、その失業武士を収容できる近代産業も政府はまだ興しておらず、維新で政府がやったことと言えば士族を山野に棄てただけだった。

殿様の島津家にとっても立つ瀬がなかった。幕末の政治運動費も戊辰戦争の戦費も島津家の自費でやったのに、やっと維新が成立したと思う

と政府が酬いたことは、領地の召しあげと四民平等という封建的島津家の否定であった。これほど踏みつけにした話はなく、それらの新政が

「天皇」という名のもとに出ているため結局は西郷の奸謀だというしかない。大久保は外遊していて残った西郷が、革命が必然的にもたらす

旧勢力没落と憤慨の悲鳴や怒声を一身に受けざるを得なかったのである。(いっそ死のうか)と、時に西郷は憂欝症にかかり何度かそのこと

を願望した。
『翔ぶが如く』を読む(16)
by かおる at 2018/7/23(月) 09:22:36 No.20180723084439 コメント】  削除 引用

[西郷の苦悩と久光への詫び状] 西郷が御親兵を率いて上京するとき、久光に廃藩置県はするなと言われたのに廃藩置県に同調してしまい

久光を裏切ったことを悩んでいた。「西郷こそ、我を売りたる者なれ」「その主家(島津家)に対して不忠な者が皇室に仕えて忠であるはず

がない」と久光は言い続けた。この時期西郷は久光に詫び状を書いている。今、自分は政府の大官を頂戴してそれに甘えている観があります

と、悲痛な自己批判をしているそう書かざるを得ない理由は、国許の久光側近たちが久光に向かって「西郷や大久保ほど悪人は古今に類がな

い、彼らは自分が大官になりたいため藩を利用し、幕府を倒し、廃藩置県で主家の領地を取り上げてしまった。すべて己の栄達のためである

と言われていたからで西郷は自己批判せざるを得なかった。詫び状は続いて「大恩を受けながらひどく私をお嫌いになっていられること誠に

恐懼の次第でございますのでいずれ参上仕りその罪を謝するつもりで居ます」実は明治政府は廃藩置県のあと、島津久光の怒りを解くべく

明治5年6月天皇みずから鹿児島に行幸しているほどである。


翠嵐コールドゲ^ム
by どか at 2018/7/12(木) 18:48:41 No.20180712183836 コメント】  削除 引用

たまたまチャンネルを回していたら高校野球、翠嵐対サイエンスの対戦中で2点差で負けていた。
しばらく見ていたら翠嵐の猛攻が始まりたちまち逆転、
終わってみたら8回で12対5のコールドゲーム勝ちだった。
相手は新設校で野球部員もいまだしの感があったが翠嵐の攻撃力はなかなかみものであった。
今日の午後、保土谷球場からの中継。

『翔ぶが如く』を読む(15)
by かおる at 2018/7/1(日) 06:43:34 No.20180701053022 コメント】  削除 引用

[木戸の疑念と西郷の苦悩] 山県らの説得で西郷は兵四個大隊を率いて東京に上ったところ「西郷は東京で第二幕府を創るつもりで居るので

はないか」と木戸などは疑念を持つようになった。木戸は、西郷の思想は保守的で封建制への憧憬を持ち、性格は野望家であるとみていた。

薩摩は西郷が代表しているとばかり木戸は思っていたが、実は西郷の足首を握って離さない人物がいたことを木戸は思いつかなかった。

島津久光の存在である。彼は病的な保守家で封建制の支持者であり、できれば「島津幕府」でもつくりたいと思っているような人物であっ

た。久光の思想や野望の表れが、そのまま西郷の思想や意思であると木戸はみていた。西郷の一諾で決まった、と廃藩置県のために奔走した

山県はこれを爽快な政治劇の一幕として回想したが、西郷にとっては爽快どころではなかった。西郷が3月献納する御親兵を率いて東京へ上

るとき、久光から「廃藩置県はまかりならん」と釘を刺されていながら、7月には廃藩置県をやってしまったのである「自分の方はよろしい」

と山県に一諾してしまった、西郷はこの瞬間久光への裏切りをやってしまっていた。この一事で西郷は久光から生涯罵倒されることになるの

だが、西郷はその覚悟を決め込んだのであろう。西郷は久光の存在を辛がり、それ以上に久光と側近から発射し続ける「不忠者」「大奸物」

の罵倒を辛かったが、この時、あるいは西郷は絶望的な勇気を奮って山県に一諾したのかもしれない。木戸は後にこの薩摩藩の内情を知り

「西郷は辛かったろう」と同情したと言われる。
『翔ぶが如く』を読む(14)
by かおる at 2018/6/27(水) 10:12:17 No.20180627093645 コメント】  削除 引用

前の廃藩置県の話と前後してしまうが欧州から山県が帰国してみると、欧州では政府が軍隊を持っているのに日本にはまるで兵隊というもの

がいなかった。山県は新帰朝だけにあきれる思いだった。 [政府軍の創設] 明治3年8月の段階では東京には兵隊がいなかった。かっての

官軍は解散してそれぞれの藩に帰り、東京にはわずかに長州兵が駐屯していただけであった。山県は政府軍の設置を考えた。御親兵とか近衛

とか呼ばれた。とりあえず薩長土三藩から兵を献納させねばならないが、それには薩摩の西郷の威望を借りねばならないとおもい、まず島津

久光を説くために岩倉具視が勅使になり山県と西郷従道が随行した。西郷は賛成し、明治4年3月四個大隊の兵を率いて海路東京に入った。

この時天下の不平士族は西郷が何かやるのではないかと期待した。西郷隆盛という明治初年の反政府運動を象徴する人物の運命はこの

明治4年3月の御親兵献納から出発したともいえる。
『翔ぶが如く』を読む(13)
by かおる at 2018/6/23(土) 09:21:34 No.20180623085119 コメント】  削除 引用

[山県が西郷を説得する] 廃藩置県に西郷は反対するだろうと他の者は思っていた。西郷が否と言えば刺し違えるまでだと山県は決意

していた。西郷の住んでいた日本橋の屋敷というのは薩摩藩が町人から買い取った町家で、ひどく荒れていた陋屋だった。一室に通さ

れると、武骨な若者が煙草盆を持ってきた次いで菓子が出た菓子はカルメラであった。やがて西郷ができた。山県は一世一代の雄弁を

ふるい、廃藩置県の必要性を説いた。西郷は最後までそれをじっと聞いていた。山県はやがて「貴意やいかに」と訊いた。西郷は頷き

「私の方はよろしゅうございます」と鄭重に答えたのには、山県はあっけにとられる思いであった。念を押すと西郷はもう一度頷き同

じ返事をした。廃藩置県という空前の変革は西郷の一言で済んでしまった。
『翔ぶが如く』を読む(12)
by かおる at 2018/6/21(木) 20:08:14 No.20180621193548 コメント】  削除 引用

[西郷と大久保の対立] 西郷と大久保の対立の原点は明治4年の廃藩置県から始まったと考えられる。廃藩置県で主導的な役割を果たした

長州藩も極秘にしていた。木戸を中心に伊藤博文、山県有朋、井上馨、鳥尾小谷田、野村靖それに佐賀の大隈らが根回しをして回った。

右大臣岩倉具視の耳に届いたのは実施の直前であったらしい。大久保は既に伊藤から知らされていたが黙していた。問題は薩摩藩であった。

超保守派の島津久光がいてだいいち、西郷がそうだと思われていた。この廃藩置県案が薩人に洩れれば大乱を起こすだろうと懼れていた。

しかし薩摩を動かす以外に手はない。薩摩を動かすには西郷を承知させるほかない。その当時西郷は日本橋小網町に住んでいた。

彼を動かす人物として山県が買って出た。このあたりのことについては(二)好転の章に出ているので書いてみよう。

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