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翠嵐6期生憩いの広場

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とんがりの系譜 7   <夏の会発足>
by どか at 2018/10/19(金) 22:02:46 No.20181019215952 コメント】  削除 引用

同期生が多数占めていたという事は、その卒業・就職によって会の活動は急速に低下していったことは当然のことといえる。
その後も後輩たちの精鋭部隊が難関な山々を次々制覇していってくれたが会全体の動きはいかんせん低調にならざるを得なかった。
社会人となった会員たちには、次に結婚・育児が待っていた。山へ行く回数は遠のくばかりだった。
このころ会員同士の結婚は4組となり、後輩たちの分も加えると6組のカップルが成立し皆からの祝福をうけた。
トップバッターのよっちゃん・チー坊のカップルは氷川丸の一室を借りて皆で祝賀パーティを催した。

昭和29年〜30年、会員の結婚ラッシュとなり全員が家庭を持つこととなっていった。
子育てが始まっていたこの頃、何か満ち足りない感覚に襲われたのかよちよち歩きの子供を連れたファミリーが丹沢キャンプを始めた。
年を追って参加者は増えるばかり、毎年8月実施のこのキャンプは夏の会と命名され昭和35年から10年間続いた。
キャンプ地は西丹沢、世附川の自然たっぷりの別天地を県の許可を取って使わせてもらい入路も林道の一つを使わせてもらった。
キャンプの準備にはパパたちが現地にトイレやドラム缶風呂を事前に建設、野生豊かなキャンプ村として楽しんだ。




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『翔ぶが如く』を読む(20)
by かおる at 2018/10/11(木) 10:49:44 No.20181011101806 コメント】  削除 引用

[大久保と西郷従道が征台を遂行した理由] 一旦消えてしまった征台案は西郷が下野した後、大久保と西郷従道が取り上げたのである。

大久保は台湾が欲しいのでもなく、高砂族が憎くもなく、外征もしたくなかった。要するにせめて台湾の生蕃でも討って国内の征韓論の

沸騰を鎮めたいという発想から出ていた。西郷従道は兄の西郷を取り巻いている薩摩士族たちを鎮静させるための策だった。台湾出兵の

希望者を募るそうすれば連中の気も和むに違いない、台湾に出兵すれば、政府の腰抜けだという彼らの印象を薄められるという思惑があった。

参議木戸孝允も山県有朋も征台論に反対した。参議の大蔵卿大隈重信が大久保に説得されて、征台の準備を進めているとき佐賀の乱が勃発し

てしまった。計画が頓挫するかに見えたが大久保は自ら九州へ行き佐賀の乱を鎮圧する総指揮をとった。従道が随行した。台湾へ出兵しよう

とした矢先、横浜で発行されている英字紙ジャパン・ヘラルドが騒ぎ出した。「日本政府は極秘裏に台湾を外征すべく準備を進めている。と

北アルプスの山々
by どか at 2018/10/7(日) 22:47:05 No.20181007224255 コメント】  削除 引用
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No.4


もうすぐ台風がやってくる、ツアーをキャンセルすれば代金は戻ってこない。
もう今年が最後だからと思い切って参加したフルムーンツアーだった。
東海道新幹線は運転見合わせだったが北陸新幹線は平常運転。エーイままよと出かけたのが良かった。
立山ケーブルから黒部アルペンルート・上高地三日間のツアーは奇跡的に好天に恵まれた。
剣岳・別山・立山・赤岩山・針の木・爺岳・鹿島槍・蝶・不帰・常念・有明・穂高・焼岳、北のほとんどの山を目に焼き付けてきた。
剣、立山、針ノ木・上高地の写真を掲げました。


1.  ひろみ > 2018/10/11(木) 10:17:21
ラッキーでしたね。写真の説明が一言欲しいです。

『翔ぶが如く』を読む(19)
by かおる at 2018/9/30(日) 14:51:58 No.20180930135801 コメント】  削除 引用

[台湾への出兵] 明治4年10月に宮古島の船が暴風で台湾南部に漂着したところ、大勢の乗組員が先住民高砂族に虐殺されてしまった。この

報復を鹿児島県参事大山綱良や樺山資紀(すけのり)等が台湾出兵を唱えた。熊本鎮台司令官桐野利秋も上京して西郷に話し出兵に賛同を

得た。征台策の中心は副島外務卿であった。彼は台湾は昔、日本の領地だったと思っていたからこの際取り戻してしまおうと考えた。

太政官において正式の会議になったのは、事件発生後1年経った明治5年11月である。議論は反対論と自重論が多かった。そもそも国際慣行

に不慣れで明治政府は解決の方法が分からなかった。ところが、厦門の米領事リ・ゼンドルがこの事件を知り駐日公使デ・ロングに問題を

提起して副島外務卿に台湾打つべしと建言した。副島は明治6年3月から7月まで、清国に全権大使として行き交渉した結果、台湾の蛮人の

やったことに清国は責任は届かないので、被害のあった国が直接行動を起こしてもいいことになった。台湾出兵をやるについての外交的基礎

は得たとした。副島外務卿が清国から帰国してみると太政官は西郷の主唱する征韓論で沸き返っていた。外遊してきた大久保、木戸、岩倉等

と西郷が対立して遂に西郷が辞表を出した。副島、板垣、後藤、江藤の4人の参議も辞表を出した。こうした争議で副島の征台策は潰れて

しまった。

東根作さん
by どか at 2018/9/19(水) 17:23:01 No.20180919172114 コメント】  削除 引用

同期の東根作英一さんが亡くなったという悲報があった。
老後も健康に留意し元気に大倉山から新横浜にかけてウヲーキングを心掛けていた。
がんが見つかったのが遅かったとのことですが残念です。

息子の英壽さんは、テレビ俳優として活躍中、NHKの朝ドラ「半分青い」でも喫茶店のマスターとして登場してます。


1.  みつよ > 2018/9/23(日) 19:05:58
皆さんにお願いします。癌は自覚症状が有ってからでは駄目、定期的に健康診断を受けて早期発見に努めましょう。
新山猿のたわごと(1)
by かおる at 2018/9/17(月) 22:38:14 No.20180917214956 コメント】  削除 引用

◆先日デパートの甘味処で、若者の友達連れが「やばい・・、俳句をする小母さんたちばかりだ」と言って自分達の入る処じゃない

らしいと思ってか出て行ってしまった。気を遣ってか年寄りばかりだとは言わなかったが、老人ホームの食堂かと見紛うほど高齢者が

大勢座っていた。◆いまや4人に1人が高齢者であるというから何処に行っても高齢者が目に付くようになっている。敬老の日の新聞

には100歳以上での高齢者が6.9万人でその内女性が88%と圧倒的に多い。男性は長生きできないらしい。おまけにその都道府県別

ランキングでは神奈川県は43位で下位。日本人男性の平均寿命は81歳と知り複雑な気持になった敬老の日である。
昭和の怪物七つの謎を読む(3)
by ひろみ at 2018/9/8(土) 17:00:13 No.20180908162016 コメント】  削除 引用

[喧騒の項目検討会議(大本営政府連絡会議)] 赤松秘書官は当時の会議をこう証言した。この時の会議は午前9時から翌日の午前2時まで

続いたのだが、東郷外相がいきなり乙案を出した。するとだよ、統帥部は騒ぎ出した。すぐに開戦だ。残された日はないんだ。すぐに開戦と

譲らなくなってしまった。赤松の証言は人間の感情を土台にして会議の空気を語っている。武藤章(陸軍省軍務局長)は杉山や塚田に貴方達

が強い意見を言っているとこの会議自体がまとまらずそれでは東條さんはお上への責任が果たせない。それで辞職だ。もう一回内閣を作って

やり直すことになる。それでも良いのかと詰め寄ったのである。「東郷さんの乙案を認めるしか方法はない」そして武藤は杉山、塚田それに

軍令部総長の永野らを説得して受け入れさせた。結局乙案で交渉することになった。交渉に元駐独大使来栖三郎を急遽アメリカに派遣するこ

とになった。東條が外交に力を入れ、戦争をひとまず避けようとすればするほど軍内から、民間の国家主義陣営から好戦的政治家、軍の長老

から批判される。陸相時代に率先して戦争に向けて世論を代弁していた東條は、首相として陸相時代とは逆の立場をとれと命じられたわけで

ある。アメリカとの交渉は四週間近く続き11月27日にアメリカ政府は回答をした。いわゆるハルノートがそれである。

昭和の怪物七つの謎を読む(2)
by ひろみ at 2018/9/3(月) 10:52:28 No.20180903101727 コメント】  削除 引用
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No.1

東郷外相が渋るのに対して、杉山参謀長は11月30日までに外交交渉がうまくいかなければ戦争と主張している。

参謀次長塚田は11月30日以上は認められないと答えているこの一日延ばす論争には何の根拠もなかった。次いで

日米交渉の妥協案をどこにするかという段階になって、従来の案(中国への期限付き駐兵)に対して東郷は別の

案(乙案)を突然提出した。これは外務省の長老幣原喜重郎などが密にまとめたものでそこには「太平洋地域で

日米両国は武力発動をしない」「アメリカは年間百万トンの航空機用揮発油の対日供給を確保する」となってい

た。杉山、塚田の参謀本部の出席者がこれでは南部仏印から撤兵することになってしまうので認められない、と

激高して会議は怒声を帯びた。日本がアメリカとの戦争を決意するプロセスのこうしたやり取りはあまりに児戯

に似ていた。なぜ日本は戦争に突入したのか、東條の秘書官の目で見ればだれに責任があるのか具体的に質問をした。
昭和の怪物 七つの謎を読む(1)
by ひろみ at 2018/9/2(日) 12:03:15 No.20180902105352 コメント】  削除 引用

この本は、今年7月末に講談社現代新書で発行された。保坂正康が書いたものだった。酷暑のランドマークプラザの本屋の書棚から何気なく

取り出していた。ちょうど終戦記念日だった。

[戦争を決意する会議] 昭和16年10月17日、東條は首相に指名された。東條は陸軍の強硬派として戦争への道を進めてきたが、天皇や木戸は

強硬派の東條によって軍内を抑えようとした。そのため東條に対してこれまでの政策を白紙還元し再度政策を練り直すように命じた。半月後

いよいよ戦争を決意する会議となる項目検討会議(大本営政府連絡会議)が開かれた。東條の示した第一案は、戦争せず臥薪嘗胆する 

第二案直ちに開戦を決意して作戦準備を進め戦争により解決する 第三案、戦争決意の下に作戦準備と外交を併行する、外交を成功せしむる

ようにやってみる これでは以前と同じ選択肢を並べているだけである。議事録を読むと午前9時に始まった会議で海相の嶋田繁太郎が鋼材

の割り当てを増やして欲しいと言うのだが、これに対して参謀総長杉山元が「鉄をもらえば戦争を決意するのか」と応じている。嶋田は頷

いたことになっているのだがこのやり取りが6時間も続いた。その後第一案から順次検討していった。東郷外相が戦争に消極的意見を披歴し

たがこの会議で第三案の方向へ進み期限付きで外交を進め駄目だったら戦争をということになっていく。

とんがりの系譜 6
by どか at 2018/8/26(日) 18:15:34 No.20180826181341 コメント】  削除 引用


とんがりソングについてもここで触れてみたい。
当時は山で過ごす夜はファイアーを囲んで歌を唄って過ごした。
山行を重ねるごとに次々に新しい歌が他のチームから入ってきて持ち歌が自然に増えていった。
後に歌声喫茶に取り込まれた歌も多々あったが口コミで覚えた歌は会の歌集に取り込まれていった。
今でも、この仲間が集まると往時の状況を懐かしみながら歌っている。

歌集編集には、市大グリークラブのポンちゃん、北大山岳部のクマさん、それに神奈川学園のダー子先生が当たってくれた。
このお茶大出身のダー子先生は何があったのか丹沢で最期を迎えられ新聞に大きく取り上げられる悲劇があった。
児童合唱団を立ち上げ大きな仕事に取組んでおられた。
とんがりで新聞記事になるのはこの人以外にはないと思う。


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