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翠嵐6期生憩いの広場

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『明治天皇』を読む(11)
by かおる at 2019/8/18(日) 10:28:35 No.20190818090958 コメント】  削除 引用

[西郷の朝鮮派遣をめぐる攻防] 西郷の朝鮮派遣は二転三転した。三条太政大臣と岩倉右大臣の苦悩が続いた。「明治天皇(二)」から

日時を追って書き出してみる。

明治6年10/14 閣議で岩倉は次のような見解を述べた。日本が目下直面している重大事は三つある。樺太をめぐるロシアとの紛争決着、台湾

の生蕃人討伐、朝鮮への使節派遣である。なにも朝鮮派遣だけが急務ではない。むしろ樺太事件の解決こそ急がなければならない、と。西郷

は怒りを露わにした。四人の参議(板垣、後藤象二郎、副島、江藤新平)が西郷支持、3人(大久保、大隈重信、大木喬任)が岩倉支持で

あった。

10/15 三条太政大臣は西郷支持を表明した。これで西郷の朝鮮派遣は決まったかのように見えた。

10/17 大久保は征韓論に抗議して辞官を申し出た。この日の廟議は三条のほか征韓派の参議のみ、西郷は勅裁を得られよと督促する。

三条は「一日だけ猶予ありたい、明日必ず奏上する」と言った。廟議後、三条は岩倉邸に見舞う。岩倉の示唆で西郷を招き説得するが西郷は

譲らなかった。

10/18 三条、早暁自宅で昏倒、太政大臣の執務が出来なくなった。

10/19 三条実美人事不省になる。西郷案の処置決定に関して極度の緊張が原因だった。

10/20 天皇が岩倉宅を訪問して太政大臣代理を任命した。

10/23 岩倉は朝鮮使節派遣に対する反対意見書を上申して天皇の裁断を仰いだ。維新以来僅か4,5年で国の基盤は不安定である。軽々し

く外国と紛争を起こしている時ではない朝鮮との戦争は使節の到着と共に勃発することが見越される。使節派遣は国力が充実するまで待つべ

きである。

10/24 天皇は岩倉の意見に賛成した。この天皇の一言で征韓論は消えた。西郷と西郷支持の参議は全員病気を理由に辞任した。
『翔ぶが如く』を読む(32)
by かおる at 2019/8/6(火) 11:54:14 No.20190806105224 コメント】  削除 引用

[ 議事は西郷と大久保の喧嘩で進行した。討議は大久保が優位に立ったが、結論が出ないまま翌日に持ち越した。だが、翌日の廟議では

西郷の朝鮮派遣が逆転して決まった] 西郷は不死身であった。彼は大久保のところに駆け寄り「貴公はそういわっしゃるが拙者の渡韓のこ

とは前の廟議で決まっていることでごわす」西郷はこの既定事項で押し切ろうとしたが、大久保はその廟議がどういうものであったか自分は

不在だったから存ぜぬと言った。西郷は色をなしそりゃ貴公本気の一言か。と言うあたりから怒気が西郷を動かし、もはや議論ではなく喧嘩

であった。翌日十五日廟議は再開された。昨日に引き続き木戸が欠席した。薩摩嫌いの木戸はこの廟議を薩摩派の私闘争的要素が強いとみて

おり西郷の征韓論には「無謀の暴論」と切り捨てている。もっとも木戸の欠席には他の理由もあった。もし木戸が廟議に出席すれば征韓論

に反対し、テーブルの上だけでは済まず、軍事的騒乱を引き起こす可能性あった。なぜならば長州系の軍人はすべて反征韓論者であり、薩長

二つの軍内部の勢力が激突する恐れがあった。それがもとで薩長の抗争になり明治政権が二つに割れてしまう羽目になり兼ねなかった。午前

十時に始まった廟議は大久保ら反正韓派にとって信じがたい逆転が起きた。岩倉の口から、西郷を大使として韓都ソウルに派遣することに決

しました。左様お心得くださいますように。と素っ気ない切り口上で表明した。事情は以下のようである。征韓論の論争は双方が半々である

以上、太政大臣の三条と右大臣の岩倉の二人で採否を決めざるを得なかった。二人になった時「万策尽きました」三条が血の気の薄い顔を

岩倉の方に寄せてささやいた。征韓論はもはや回避しがたい。西郷の背後勢力が暴発すれば政府が潰されてしまう。それよりも大久保を捨て

ようと三条は考えた。岩倉も三条の考えをやむを得ないと思った。廟議の終了後、太政大臣三条は憔悴して帰宅した。

『翔ぶが如く』を読む(31)
by かおる at 2019/7/31(水) 17:13:20 No.20190731161954 コメント】  削除 引用

[西郷の朝鮮派遣要請が廟議で論争になった。この問題はやがて西郷の下野にまで発展する政変である。そこで再び『翔ぶが如く(3)』から

征韓論の廟議での攻防を読み直すことにした] 明治6年8月14日廟議が始まるのは午前10時であるが、三条太政大臣と西郷の席が空いている。

この朝7時に西郷が三条の家を訪ね猛犬のように噛みついていたからである。このため廟議は午後から開かれることになった。岩倉が議長役

で議題を説明した。「参議諸侯にお集まり願ったのは外交上の諸問題が山積しています。これについて軽重緩急を論じて頂きたい」と語りだ

した。本来なら西郷参議を朝鮮に使いせしめる件について議したいと言うべきはずのところが、現下の外交上の一般問題について議したいと,

岩倉の巧妙なところであった。西郷がすぐ反応した。「朝鮮問題についてではござらぬのか」「朝鮮の無礼暴慢、なるほど重要である」

そもそも朝鮮は清国を宗主国としてその後ろ楯の大きさを恃むがゆえに日本に対して驕慢である。朝鮮の背後には清国だけでなくロシアも

控えている戦いともなればこの両国が黙っているかどうか、決して黙視しない。と岩倉は言う。西郷は「遣韓大使のことは去る8月17日

の廟議ですでに決まっていることで、今ここでそのことの是非を論ずる必要はない」そして大久保が日本の国家財政が逼迫していることを

述べた。「戦いによって平時でさえ国費を賄うに足りぬ物産がいよいよ減じ、かつ軍艦や銃砲、弾薬、軍服など生産する能力がないためにそ

れらすべて外国から買わねばならないため、すでに日本の外債は500万両という多額に上りその大部分を英国から借りているから今戦争に

よってそれ以上借り、かつ返済の見込みがないとなれば国家の独立はどうなるのか。かってインドの諸侯は互いに相戦って疲弊し助けを英国

商社に求め、やがてはインドそのものが英国の所有になったように日本も朝鮮もこの戦によってインドの如くなるのは火を見るよりも明ら

かである」征韓策を取れば国家は滅亡するという大久保の論旨に駁論できなかった。

『明治天皇』を読む(10)
by かおる at 2019/7/27(土) 11:44:31 No.20190727105057 コメント】  削除 引用

[閣議で、西郷の朝鮮派遣は多く支持されたが、三条は決断する勇気がなかった] 三条は岩倉の意見を待っていた。西郷は、三条の優柔不断
さに苛立ち、直接三条を訪ね次のように論じた。もし岩倉の帰国を待てば時機を逸することになる。使節が行けば必ずや朝鮮は使節を殺すに
違いない。それでこそ軍隊を派遣し、その罪を鳴らす名目が立つ。昨今の国内の情勢には、内乱を望むかのような兆しが満ち満ちている。
この際国内に鬱積した怒りの切っ先を外に転じ、以て国威を海外に発揚すべし、と。
三条は閣議を招集した(8/17)。西郷の提案通り朝鮮への使節派遣が決まった。しかし三条の心はいまだ揺れ動いていた。三条は避暑に箱根
宮下に滞在中の明治天皇の下を連日にわたり訪ねた(8/19〜8/23)。明治天皇は次のような聖断を下した。西郷の朝鮮派遣の件は、岩倉
の帰国を待って閣議で十分な議論を尽くし、その上で朕に報告せよ、と。三条は東京に戻り天皇の意思を西郷に伝えた。岩倉の帰国を待つと
いう勅命が天皇自身の決断から出たものか、あるいは三条の度重なる説得の結果かそれはわからない。もしこれが事実、天皇の決断であれば、
天皇はこれまでの天皇の政治的行為の中で最も重要な決断をしたことになる。朝鮮との戦争は、この時期の日本人の多くが熱烈に望んでいた
ことだった。しかし、当時の日本が速やかな勝利を収めるに十分な軍事力を持ってい
たかどうかは疑問である。9月13日、岩倉は21か月にわたる海外12か国親善訪問の旅から帰国した。岩倉の帰国によって征韓論に終止符が
打たれたわけではなかった。

明治天皇を読む(9)
by かおる at 2019/7/22(月) 18:50:57 No.20190722175239 コメント】  削除 引用

[朝鮮出兵の声が高まり、閣議で西郷が朝鮮へ使節派遣を提案した ] 朝鮮は交易と外交関係を開こうとする日本に対し門戸を閉ざした。
その高飛車な態度に対し日本は怒り心頭に発していた。明治6年7月に対馬の商人以外の日本人が密に倭館に出入りしていることが発覚した。
朝鮮政府は倭館の門前に潜商禁止の令を掲示し日本側の違法行為を非難した。また髪を西洋風に刈り洋服を着たこれら日本人に対して
「此れ則ち日本之人と謂うべからず」と失望をあらわした。こうした日本の名誉を侮蔑する行為に日本中が怒り狂い、朝鮮出兵の呼び声が高
まった。閣議が招集され三条太政大臣は日本は将来いかなる凌辱を受けることになるか予想だにつかない。維新以来、日本は朝鮮と友好関係
を保ち、善隣の道を尽くすべく努力してきた。しかしそれは侮蔑によって報いられるだけだった。日本は朝鮮にいる我が居留民保護のため、
陸海軍の小部隊を派遣すべきであると閣議に賛同を求めた。口火を切ったのは西郷だった。西郷は部隊の派遣に反対し、次のように言った。
いまにわかに陸海軍を派遣すれば、朝鮮人民は日本が朝鮮を併呑するのではないかと疑懼の心を抱くに違いない。これは我が朝廷の意思に
反することである。まず全権使節を派遣し、日本の真意を伝え朝鮮側を説諭すべきである。朝鮮がこれを聞き入れず、無礼を働くようであれ
ば、その罪を天下に鳴らし、朝鮮を討てばよい。その使節に自分がなる。西郷の提案は多くに支持された。ただし、政府の中枢を占める人物
の中には海外渡航中の者もいたし、この日の閣議に出席できなかった者もいた。この論争が起きた時、副島外務卿はまだ清国から帰っていな
かった。木戸と大久保は参議でなかったため、出席する資格がなかった。岩倉はまだ海外にいた。
明治天皇を読む(8)
by かおる at 2019/7/13(土) 10:25:35 No.20190713094428 コメント】  削除 引用

[対朝鮮尊敬から侮蔑へ]朝鮮は交易並びに外交関係を開こうとする日本に対して門戸を閉ざした。朝鮮は日本と異なり、文明開化政策の

採用を拒み、西洋に門戸を閉ざしていた。日本人の眼から見れば朝鮮は、かってのヨーロッパ人の眼に映った日本そのものだった。そのこと

が、朝鮮の後進性に対する侮蔑の念を生んだ。かって中国文化の伝播者として朝鮮に抱いていた尊敬の念と、これは著しく対照的なことと言

わなければならない。当時ロンドンに居た木戸孝允は、ニューヨークの新聞で朝鮮が日本使節の一人を拘留し、一人を放逐したことを伝える

記事を読んだ木戸は、「朝鮮国の頑固で無法なること、実に憎むべきものがある」と日記に書いている。さらに、我が国が「遠く西洋とも

通商を盛んにするになった以上、アジアの近隣ともまた開国して近代化へ向かわなければ、日本の将来の目的を十分に達成できない」と書い

ている。木戸の頭には、もし朝鮮が近代化したがらないならば、これは日本の利益にとって有害となる。あるいは戦争が、日本にとって開か

れた唯一の道かもしれない。と「木戸孝允日記」明治5年7月29日に書いている。
『明治天皇』を読む(7)
by かおる at 2019/7/12(金) 17:38:16 No.20190712152623 コメント】  削除 引用
1600 x 1200 x 491,714バイト <この画像は大きいので別画面で表示します>
No.1

[征韓論に至る日本と朝鮮の関係]ドナルド・キーン の明治天皇(二)を読んでいる。明治初期の日朝関係は

緊張していた。明治元年12月、対馬藩士が明治政府の使者として王政復古を告げた。これまで友好関係にあった

幕府が倒されたことを知った朝鮮は、維新政府と関係をを結ぶことは不本意と表明した。朝鮮の方から見て明治

政府は武力で幕府を倒した不当な強奪者と見えた。明治政府は明治3年2月に外務省の役人を朝鮮に派遣したが、

日本政府の国書受け取りを拒否された。9月に再度使節を派遣したが会見を拒絶された。朝鮮側の回答は、過去

300年にわたって対馬藩が両国の仲介を務めてきた。なぜ今になって、この習慣を絶つのか。日本が両国関係を

緊密にしたいならば、旧来の習慣を遵守すること、と。再度斥けられてしまった。それでも日本政府は次の使節

を明治5年1月に釜山に派遣した。今度は日本側と折衝に当たる役人が病気と偽り面会を謝絶した。やっと5月になって、役人が倭館を訪れ

国書を検討すると告げた。しかし、回答の期限については約束できないと、曖昧な返答でいたずらに回答を引き延ばそうとする態度に業を

煮やした使節一行は、禁を破って倭館から直接地方庁へ赴いた。朝鮮側は面会を拒絶したばかりでなく、倭館を出て禁城に入ったことを非難し

た。日本側は倭館に引き下がるほかなかった。使節一行は帰国して外務卿副島種臣に報告した。8月に、外務大丞花房義質が倭館に駐在する

対馬藩の家臣を外務省の役人と入れ換え、交易所を外務省の管轄下に置くことにした。もはや倭館は、一対馬藩の交易所ではなかった。

ここでもまた交渉は長引き、両国の関係は悪化するばかりだった。
とんがりの系譜 19 (第3棟はすべて手造り)
by どか at 2019/7/7(日) 18:38:17 No.20190707183509 コメント】  削除 引用

常連客の中に材木商の大物がいた

チョウさんの自前で建ててみたいとの夢に材木を提供するから建ててみなとの申し入れ。

トラックに山積みされた木材が次々に運ばれてきた。

基礎作り、測量、設計、材木の刻み、慣れない仕事を村の大工さんに相談しながら黙々と縦鼻が進められていた。

建前は全員参加で柱がくみ上げられた。

水回り配管作業、屋根ふき、どれをとっても一筋縄ではいかない難行であった。

建築部の苦労は大変なものであった。

檜の風呂おけの据え付け時には毎日新聞地元記者が取材に来ていた。

こうして、匠の里と呼ばれる第3棟は完成を見た。


とんがりの系譜 18 (山荘ライフ)
by どか at 2019/6/27(木) 22:12:38 No.20190627221034 コメント】  削除 引用

本格的なロッヂ生活が定着してきた。
多彩なもの好き客が次々と訪れてくるようになった。
駐車場や周遊道路が整備され、植林も始まった。
最初の小屋前の臨時づくりの高床式窯風呂は惜しまれながら撤去された。
アウトドア派の友人知人が次々訪れ岩魚や山女をさばく,飛び跳ねる鯉と苦闘する等の光景が展開していた。
村の猟銃チームの獲物のさばき場となった一角では時に猪や鹿のおすそ分けにあずかり猪鹿蝶にも恵まれていた。
また、町の居酒屋仲間チームがママ同道ですっかりここに移動してきたケースも1軒や2軒ではなかった。
新羽の炭焼きチームが竹炭施設を寄贈してくれたのもこの頃だった。
また、会員たちは付近の山に登ったり、夜はカラオケセットを導入し盛り上がっていった。


とんがりの系譜 17 (大工修行)
by どか at 2019/6/15(土) 21:35:06 No.20190615213320 コメント】  削除 引用

チョウサンの建築部はがぜんいそがしくなった。
内張り、桜の木を刻んだシャンゼリア、カウンターテーブル、屋根裏部屋、次々と形を整えてきた。
岩風呂づくりは総動員で作業は大変手間取った。
しかし方々から手に入れた伊豆石や河原から引き揚げてきた大岩を巧みに利用した。
また、暖炉のチムニーは煙が逆流し大改造を要した。
古畳をセットしカーテンを取り付け盛大な竣工式を現地で開いた。
国会議員も二人参加する野外パーテイでは二世たちのロックバンドやトランペット演奏などが色を添えた。

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