今日のアクセス数

翠嵐6期生憩いの広場

掲示板、6期生の広場への書き込みをお願いします。
ひきこもりはいけません、お出かけください,人とのコミュニケーションを大切に。
一歩外へ出て、一汗かくことがこれからの幸せにつながります、恥ずかしさは捨ててチャレンジしてみてください。
写真がありましたら添付してください。題名と投稿者名もお願いします。
アンチエージングに挑戦!

ページ 1 (1〜10)ホームページへ戻る

『明治天皇』を読む(3)
by かおる at 2019/4/24(水) 15:18:52 No.20190424140221 コメント】  削除 引用

[開国必至] 後の明治天皇となる祐宮が嘉永5年9月22日に生まれた。孝明天皇はことのほか喜びが大きかった。しかし、御所における平和な

日々はそう長くは続かなかった。ぺりーの率いるアメリカ東インド艦隊が日本の近海に現れた。日本は長い間続いた鎖国から開国へと踏み出

すことになる。ぺりーの艦隊が最初に姿を見せたのは祐宮の誕生した翌年嘉永6年4月(西暦1853/5/26)琉球の那覇港だった。琉球は当時

薩摩と清朝双方に属して、しかも独自の王を戴いていた。那覇に上陸し琉球摂政と会見し農具と種子を与え、引き換えに薪水、糧食を得た。

琉球は事実上開国したも同然だった。6月3日ペリーの艦隊4隻が防備を固める浦賀湾にきた。浦賀奉行は米艦の来航を幕府に伝え、海防の

不備を訴えた。その間米艦は短艇で水深を測量し幕吏の制止を無視して本牧辺りまで短艇を進めた。米艦が湾内に入った報せが江戸に伝わる

と上下とも驚愕し狼狽した。幕府はひとまず外国からの国書を受け取り米艦が去った後に国是を定めることにした。6日後、井戸石見守弘道

と戸田伊豆守氏栄が久里浜に赴き、ペリーと対面しフィルモア米大統領からの国書を受け取った。さらに、将軍家慶が重病につき翌年に答書

を与えると告げペリーもこれを了解し翌春再航を約した。米艦の来航は6日後、幕府は京都所司代を通じて朝廷に伝えた。孝明天皇の憂慮

は深く七社七寺に四海静謐、宝祚長久、万民安穏を祈願させた。


『明治天皇』を読む(2)
by かおる at 2019/4/21(日) 10:41:40 No.20190421093549 コメント】  削除 引用

[怒り続けた天皇] 孝明天皇の肖像画を見ると顔には強い個性が表れているし、その表情からは「憤怒」と言ったものが漂ってくる。

この天皇は生涯を通じて怒り続けていた。残された手紙や文書が明らかにするところでは、在任中に起きた事件のことごとくが天皇を激怒させた。

それは単なる怒りというよりは、政治や社会の状況の急変を押し止めることが出来ない自分の無力に対するやり場のない鬱憤だった。江戸時代

中期以降の天皇は短命だった。従って、後継の天皇の即位も早く孝明天皇は14歳で即位、明治天皇は15歳で即位した。孝明天皇は京都市の中心部の

御所で育った。御所の周りには公家たちがひしめくように住んでいた。御所は皇族にとって世界の全てだった。天皇を世界と切り離し、神のごとく

禁裏に閉じ込めたのは徳川幕府の政策だった。新しい出来事、珍しい出来事を天皇の耳に入れることは禁じられた。歴代の天皇は何かの惨事が起き

た時以外御所を離れることはなかった。海を眺めた天皇も、富士山を仰いだ天皇も、江戸を見た天皇もいなかった。生涯を通じて天皇が会うことが

出来た人間はたかだか数百人の公家だけであり、日本人の殆どが天皇を垣間見たことさえなかった。(先日、平成天皇が退位の報告に伊勢神宮を

訪問されたとき大勢の国民が天皇を沿道に並んで出迎え、天皇も国民に手を振って応えられる姿を見るにつけ隔世の感がする)

『明治天皇』を読む(1)
by かおる at 2019/4/17(水) 23:25:57 No.20190417223456 コメント】  削除 引用

ドナルド・キーンの「明治天皇」を探しに紀伊国屋書店に行ったら、キーンのコーナーが特設してあり彼の著書が並んでいた。彼の死が

日本文化を見直す契機になったのかもしれない。『明治天皇』上下巻は平成13年に新潮文庫で4巻本になって出ていた。序文はこう書き出し

ている。

 京都御所の御苑の北端に板塀で仕切られた屋敷がある。その庭の一角に一棟の小さな家が建っている。今となってはほとんど目にとめる

者とていないが、この家は嘉永7年(1854)の内裏の大火を免れたばかりでなく、明治元年の東京遷都後の荒廃と破壊をも生き抜いた数少な

い公家屋敷の一つである。人の出入りを禁じるように周囲に板塀をめぐらせた外側には「祐井」(さちい)と記された小さな木柱が建ってい

る。板塀の内側には、より重々しい石碑があるのが塀越しにかろうじて目に入る。過去を物語る二つの標識だけが、ここを訪れる者に次のこ

とを教えてくれる。この家は江戸末期に建てられた伝統的日本建築の一つというだけでなく、はるかに重要な意味を持っている。事実、この

家で明治天皇が生まれたのだった。明治天皇が御所の中ではなく、生母中山慶子の実家で生まれたのは宮中の慣習によるものだった。懐妊が

知らされるや御所の局を出なければならなかった。出産は建物を穢すと信じられていて、代々天皇の御子は宿下がりした家で生まれるのが

普通で、それも用済みの後は壊される粗末な家で生まれることが多かった。皮肉にもこの小さな家は壊されるどころか、周囲の公家たちの

凝った屋敷よりも長く生き延びることになった。

とんがりの系譜 16 (いよいよロッヂ建設)
by どか at 2019/4/2(火) 19:31:40 No.20190402192835 コメント】  削除 引用

部落の酋長の弟が山北で大工をやってるという事を聞きこみ一つ話をしてみたいと酋長に相談した。

親子二人で町はずれで大工を営む実直そうな人だった。

こちらの構想を話したうえで、ところでお金は全部かき集めても600万しかないのでこれでできるところまでをやってほしい、後の内装とうは自分らで何とかやってみるからという話を持ち掛けたのだが彼らも面白がって「やってみようじゃないか」という事にまとまった。

先方にとっては生まれ故郷の八丁で仕事ができる等の楽しみもあった。

こちらからは、「毎週土日には何人か手伝いに来るから私たちに出来ることは言ってほしい」
と申し入れた。

ずいぶんアバウトな契約であるが信頼関係は強かった。


とんがりの系譜  15    (ロッヂ建設計画)
by どか at 2019/3/24(日) 18:37:02 No.20190324183002 コメント】  削除 引用

残った積立金は500万あまり、これでどんなロッヂを建てるんだ?

ここからの歩みは楽しいが前途はさっぱり見通せない。

みんなのイメージを育てるためのバスツアーが企画された。

マイクロバスを仕立てて一日、信州の原村ペンション村、八ヶ岳山麓の建物等の見学ツアー。

皆さんの声を集めて建物の精密模型がつくられた。

東急ハンズ等から部品を取り寄せ精巧なものだった。

今建てられているロッヂとそっくりだったと思う。

かくて会員のイメージは確立されていった。

『翔ぶが如く』を読む(30)
by かおる at 2019/3/16(土) 07:07:46 No.20190316061907 コメント】  削除 引用

[私学校側の対策]東京獅子(あずましし)は帰郷して各地に散った早々から私学校から警戒された。西郷を刺殺する兇徒として私学校は対策

を講じた。永山弥一郎、淵辺群平、西郷小兵衛、高城七之丞、河野圭一郎、辺見十郎太の顔ぶれである。とにかく、中原らが刺客かどうか確

かめなければならなかった。中原に諜者として、戊辰戦争で同じ隊員だった谷口登太が選ばれた。谷口は東京に職でもあれば出たいと思って

いたところだった。中原は内心格好の男が飛び込んできたと思ったであろう。つい谷口の口に乗ってしまった。「警視庁もいまちょうど盛大

に取起すつもりでいるから君の勤場も必ずあるであろう。私も力になってあげるから、私が東京に帰るとき一緒に行こう。ついては、厩跡

の学校(私学校)のことだがどういう景況か」中原は尋ねた。谷口は答えて、昨今、入校するものがおびただしく、入校しない者は隣家との

付き合いまで差し控えたりいろんな嫌疑を受けたりするという。私学校側も半ば強迫的に入校を強要していて挙兵の準備であったかどうか。

中原は人を信じやすい所があった。一別以来久しぶりに会った谷口登太をすっかり信用してしまい自分の秘密を明かしてしまった。

『翔ぶが如く』を読む(29)
by かおる at 2019/3/11(月) 10:59:57 No.20190311092418 コメント】  削除 引用

川路大警視が西郷を暗殺すべく刺客を鹿児島県に送り組もうとしている、との風説を弟の小兵衛から聞いた西郷は、下僕を連れて日当山を

去ってしまった。大隅半島の先端に近い小根占と言う海岸の村に入った。一方、警視庁は帰郷組の松山信吾が小根占に居る間に西郷の消息を

既に掴んでいる。彼らは暗殺団なのかどうか。中原尚雄ら警視庁の警官たちはそれぞれの郷里に入って活動を始めた。表向きの目的は一般

士族と私学校とを離間することにあった。彼らは親類や友人などの新しく私学校に入りたい者や曖昧な気持ちで在校している者に翻意を促し

た。ただそれだけではこの時代の青年を説きつけることは無理であった。そこで江戸末期に普及した尊王思想をもって説く方が正邪がはっき

りしているので配慮されてきた。官職は素より勅命也、勅命を奉じて賊を攘う。何をか疑はん。勅を奉じて死を致す。何の栄か之に過ぎん。

古より勅命を守りて賊名を請けたる者なし。こうした言葉が帰郷組の手帳に写し取って書かれていた。
とんがりの系譜 14 (作業が始まった)
by どか at 2019/3/10(日) 10:40:33 No.20190310103621 コメント】  削除 引用

11棟あった鳥小屋の撤去が始まった。

鉄骨とベニアと屋根のトタンでできた鶏舎を手分けして取り壊していったが突如蛇が飛び出してきたりした。

この頃となりの養魚場でマムシを捕まえたなどと気味悪い情報も飛び交っていた。

この作業の始まる前には、残っていた古小屋を大改装した。

壁にはウッデイな壁紙を張りめぐらし、ベランダを造り替え窓を取り換え山小屋風の小屋にリニューアルした。

この作業には奥様方も総動員された。

撤去が済むと750坪の広々とした土地がまぶしく見えた。

あとに残った鶏糞の撤去は地元の酋長に請け負ってもらうことにした。

「金は地元に落とそう」を合言葉に。これもチョウサンが決めた

『翔ぶが如く』を読む(28)
by かおる at 2019/3/4(月) 18:09:14 No.20190304171338 コメント】  削除 引用

翔ぶが如く(七)には西南戦争が勃発する直前の鹿児島のことが書いてある。驚いたことに西郷を暗殺しようとして暗殺団が警視庁から

鹿児島に送り込まれた。まるで探偵小説を読んでいるようだ。本編[東京獅子]はこう書きだしている。 大警視川路利良が組織した帰郷団は

単に情報収集を目的とするだけでの任務ではない。後に私学校側は彼らを「東京獅子」と呼び大久保・川路の密命を帯びて西郷を暗殺すべく

下ったとした。警視庁側に残された資料は、彼らの帰郷は説得にあるとしている。川路によって選ばれた者は伊集院郷士ニ等少警部中原尚雄

以下二十三人である。中原ら帰郷を志した警察官はしばしば会合した。その仲間の一人である加治木郷士族・ニ等巡査伊丹親恒の手記によれ

ば、この命令は川路だけでなく川路の長官である内務卿大久保利通の内命であるという。西南の変の火付け役は海老原穆の評論新聞である。

評論新聞は川路が警察官を帰郷させようと思い立った早々の段階でそれを嗅ぎつけ、それを暗殺者と見、鹿児島旧城下の有力者へ報じてい

る。九年十一月中、流言あり。政府秘かに刺客を鹿児島に遣わし、西郷大将を暗殺せんとすと。この風聞に私学校生徒は大いに驚き西郷の弟

の小兵衛を通じて日当山温泉の西郷の耳にいれた。西郷は「そうか」と言って、ただ笑うばかりであったとう。
とんがりの系譜 13 (先住者)
by どか at 2019/2/26(火) 22:06:55 No.20190226220434 コメント】  削除 引用

偶然のチャンスをつかんでたどり着いたここ山北、八丁部落には同期の川又さんの兄貴が空き家を借り受け別荘にして楽しんでいたことが分かった。

それに手前の人遠部落には東芝の福利施設として民家を借りており、これは仲間の総務を担当していたポンチャンの企画によるものと分かった。

山北は戦時中栗田谷小学校の集団疎開先であったと懐かしむ者もおり何か因縁を感じさせられた。

いつか指揮者の小澤征爾の弟をこの山小屋に招いたことがあったが、この兄弟もここに疎開していたという事だった。

かって私たちは、東丹沢の鍋割山から雨山峠・桧岳を越えて秦野峠経由で山北駅に降りたことがあったがこの時この八丁を通っている。


ホームページへ 全 58 件 [ 1 2 3 4 5 6 ]

団体 | 管理者へメール | お知らせ | 一括削除
携帯から使う方法 | ヘルプ | 利用規約 | 違反報告 | 管理パネル



- 無料レンタル掲示板 -