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翠嵐6期生憩いの広場

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景山のゴスペル
by どか at 2019/12/7(土) 21:53:52 No.20191207214921 コメント】  削除 引用
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No.2

景山ごーじ君を同期生ならご存じと思う。

かっては一橋の山岳部で、とんがりでも大いに活躍していた。

カラオケに夢中になってたと思っていたら、ゴスペルチームにいつの間にか潜り込んでいた。

ゴスペルクリスマスコンサートに出演することになったとのことで2千円のチケットを買って聴きに行ってきた。

会場は満席に近かったが何となく落ち着かない、周囲は子供ずれや若い人、世代の差を意識してしまう。

「4歳から80代まで一緒に楽しめるのがゴスペルです」説明があったが何やら場違い感が。

音楽はジャズ調で陽気だ、こんな中で歌ってる幸せ者の景さん、このチームに違和感なくすっかり溶け込んでしまってる。うらやましい限りだ。

同期で最後に残るのはこんな男だ、こんな気持ちで帰ってきた。



『明治天皇』を読む(20)
by かおる at 2019/11/23(土) 14:23:46 No.20191123131507 コメント】  削除 引用

[「第四十四章清国に対し戦を宣す」を読むと日清戦争勃発に至る経緯が書いてあった。日本が朝鮮を重要視していたように清国も朝鮮を重要

視していた。11/10読売夕刊にこんな記事があった。山県有朋が、首相当時の明治23年(1890)に閣僚に示した意見書。「外交政略論」

で国家の独立を守るためには主権線だけでなく、利益線を防護する必要があり、日本の利益線は朝鮮にあると説く。これを読んだとき日朝間の

ことが合点した] 陸奥宗光の日清戦争の記録「蹇蹇録」には当初、東学党は政府を転覆させるほど強力でないとみていた。しかし、東学党

がソウルに接近すると朝鮮政府は動揺し、袁世凱に反乱鎮圧のための援兵を要請した。外務大臣陸奥は日清両国間の権力の均衡を維持するため

朝鮮に相当数の軍隊を出兵することを提案した。首相伊藤は、天皇に上裁を仰いだところ「今般、朝鮮国内に内乱蜂起し、其勢猖獗なり、依っ

て、同国寄留我国民保護のため、兵隊を派遣せんとす」と勅語を賜った。一方清国は、朝鮮国王の要請により東学党の乱鎮圧のため朝鮮に若干

の軍隊を派遣した、と。陸奥によれば、日本駐箚公使汪鳳藻は「わが官民争執、日を逐いて激しきを見て日本はとうてい他国に事をなす余力な

かるべし」と妄断していた。清国がこの印象を得たのは日本の議会が際限のない激論のためだった。首相の伊藤は個人及び内閣に対する絶え間

ない攻撃に業を煮やし、憲法実施以来5年が経過したというのに国家前途の大計はなお「亡羊の歎」を免れない。と各政党の政府攻撃を嘆い

ていた。



『明治天皇』を読む(19)
by かおる at 2019/11/15(金) 20:27:53 No.20191115194120 コメント】  削除 引用

[東学党の一斉蜂起に日本公使館も襲撃に備える] 金玉均の遺体は朝鮮に送還された。朝鮮政府は金の死体を頭と両手両足を切断し「謀叛大

逆不道罪人玉均」と記した幟と一緒に杭から吊るした。金の家族も処刑され刺客洪鐘宇は英雄として歓迎された。日本人は金玉均の暗殺に

激怒した。清国が事件に一枚嚙んでいたため清国人に対する憎悪を募らせる結果になった。福沢は朝鮮が恥ずべき死体の切断の刑を断行した

ことを非難した。この年、明治27年4〜5月朝鮮の各地で東学党と呼ばれる宗教団体が起こした反乱が一斉蜂起した。東学運動の主唱者崔

済愚は西洋の影響を排除し朝鮮土着の教義の復活を信徒に呼び掛けた。崔の教義は儒教、仏教、道教を折衷したもので、崔の目ざす敵は

キリスト教だった。政府は農民が東学運動に扇動され反乱を起こすことを恐れた。布教の禁止にも拘らず東学党の信徒の数は増えるばかりだ

った。明治26年(1893)までに朝鮮半島の南半分は東学党一色に塗りつぶされた。東学党の外国人排斥運動はもともとヨーロッパ人だけが

対象だったが日本人も含まれることになった。農民たちはヨーロッパ人については漠然とした印象しか抱いていなかったが、日本の商人につ

いては誰もが個人的体験を持っていた。日本人商人は彼らの米や麦を買い占め彼に高利で金を貸し付けていた。東学信徒は各国公使館を襲っ

た。清国は軍艦2隻を仁川に急行させた。日本公使館は信徒の襲撃に備え日本刀で武装して臨戦態勢をとった。

『明治天皇』を読む(18)
by かおる at 2019/11/5(火) 16:05:58 No.20191105152442 コメント】  削除 引用

[福沢の脱亜論と金玉均の暗殺] 明治27年3月朝鮮の政治運動家金玉均が上海で暗殺された。この金は甲申事変以前日本に住んでいて

福沢諭吉と親しくなった。福沢は朝鮮の開化派を支持し日本は朝鮮、清国の近代化運動を主導すべきだと考えていた。しかし、改革派が政変

に失敗したので明治18年に有名な「脱亜論」を発表した。その中で福沢は「我が国は隣国の開明を待ってともに亜細亜を興す猶予あるべか

らず」寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退をともにせざるを得ないと主張した。明治17年に金は8人の朝鮮人と共に日本に亡命していた。

いずれも開化派の同志で朝鮮は日本の近代化の成功を例に倣うべきであると考え日本人の姓名を名乗り洋服を着用してた。明治18年朝鮮

政府は金を引き渡すよう要請したが日本が拒否すると朝鮮政府は刺客を送り込んだ。外務大臣井上馨は朝鮮政府に書簡で刺客の召還を要請、

代りに金を国外に追放すると約束した。その後、金は多くの日本人の支援で小笠原父島や北海道に幽閉されていた。明治27年、金は朝鮮

開化運動に対する日本政府の支援を断念し李鴻章と会うために上海に向かった。金は西洋列強の侵略を阻止するために東アジア三国が提携す

るという彼の計画を説明しに暗殺の危険を承知で出かけた。

『明治天皇』を読む(17)
by かおる at 2019/11/2(土) 22:20:31 No.20191102214858 コメント】  削除 引用
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No.1

[朝鮮のクーデターで日清の関係が険悪になった ]清国は明治17年のソウルの事変(甲申事変)で朝鮮駐在の

日本兵を攻撃し、在留邦人を殺傷した。これに対し廟議は、伊藤博文を全権大使として清国に派遣し、日清間に

深まりつつある亀裂に対処することにした。伊藤に託された使命は、これ以上朝鮮に干渉しないことを約束する

条約の締結を清国に迫ることだった。伊藤全権は2月末、清国へ向かった。天津で李鴻章との談判は捗らな

かったが4月18日になって両国の部隊が朝鮮から撤退することを規定した天津条約が調印された。事変で清国

兵を指揮した将官の処罰については条約に盛り込まれなかった。これは調査したうえで日本人殺戮の確証があれ

ば、清国の軍法に照らし処罰されることになった。伊藤は、当初の要求の修正を受け容れることにした。「天皇の東洋の大局を顧慮あらせら

れ、和好を重んぜらるゝの旨を体し、之を諾す」と、その理由を述べている。多くの日本人は日本政府の軟弱外交に憤慨していた。
翠嵐美術展
by どか at 2019/11/2(土) 17:46:51 No.20191102173016 コメント】  削除 引用
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No.2

鶴屋町のギャラリーで開催中の母校の美術展を見に行ってきた。

同期では、加藤利造さんの油彩画「錦秋(鏡池)」と小関光代さんの刺繍画「ぷかりさん橋」の2点が飾られていた。

以前は8人も出品されていた同期生の作品が今年は2点と淋しくなってきた。

加藤さんには8月の同窓会でお会いしたが若々しい印象が残っている。

会場でたまたま出あった小関さんは同期の仲間が減ったことを大変寂しがっておられた。
『明治天皇』を読む(16)
by かおる at 2019/10/22(火) 16:36:28 No.20191022154816 コメント】  削除 引用

[朝鮮独立党のクーデター(甲申事変)に事大党は清国軍の介入を要請したので,日本軍と清国軍で戦闘が始まった]

この時期朝鮮には二つの政党があった。政権を握っていたのは「事大党」で清国を宗主国と仰ぎ変革に反対している。もう一つは開化派

「独立党」は清国からの朝鮮独立を唱えていた。独立党を率いるのは日本の近代化の成功を手本にしていた人々だった。その独立党が明治

17年12月4日にクーデター(甲申事変)を起こした。王宮内は開化派が仕掛けた爆弾で混乱していた。独立党の金玉均は国王を日本大使館に

避難させた。クーデターは成功したかのように見えたが、事大党がソウル駐在の清国軍司令官袁世凱に武力介入を要請した。清国軍は王宮

に攻撃を加え国王を救出した。清国軍は圧倒的多数の軍隊で日本軍を撃退した。竹添大使らは独立党幹部と共に長崎に帰ってきた。これで

事件は片付いたわけではなかった。国内に主戦論が盛んに取り沙汰されてくるようになった。清国が朝鮮に大軍を派遣することも告げてきた。

明治18年2月、朝鮮国王は独立党のクーデター(甲申事変)で日本人が殺害されたことに対し、正式な謝罪の国書を天皇に捧呈してきた。
ラグビーW杯
by ひろみ at 2019/10/20(日) 13:28:42 No.20191020122532 コメント】  削除 引用
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No.1

桜の戦士たちの肉弾戦に興奮し感動しTVの前で涙が出てしまった。13日の日本対スコットランド戦のことだ。

TVの視聴率は39.2%に達した。日本中がこの場面に傾注し熱狂と感動の渦で不思議な一体感に包まれた。

◆ワールドカップと言ってもアイルランド、イングランド、ウエールズ、スコットランド等は英国の地域の

チームではないかと違和感を覚えた。そもそもラグビーW杯は1987年にオーストラリア、ニュージーランド、

南アフリカ、フランス、イングランド、ウエールズ、スコットランド、アイルランドの8ラグビー協会が立ち上

げた大会である。今年で9回目の開催になる日本大会には20国(地域)が出場しているが予選通過チームは

ロシア(ヨーロッパ1位)フィジー(オセニア地区1位)トンガ(オセニア地区2位)サモア(ヨーロッパ・オセニアプレーオフ勝利)

ナミビア(アフリカ1位)アメリカ(アメリカ地区1位)ウルグアイ(アメリカ地区2位)カナダ(敗者復活戦勝者)の8チームと前大会の

ベスト12位(各プール3位)が予選免除されていて複雑である◆日本のラグビー発祥は1899年(明治32年)に慶応の学生がプレーしたという

のが通説だったが、近年の研究でそれ以前の1866年(慶応2年)に「横浜フットボールクラブ」が設立され外国人同士のラグビーの試合が

横浜で行われていたことが判明した。このクラブはアジア最古のラグビークラブと認定された。ラグビー日本大会の開幕を前に山下町公園

(関帝廟前)に日本のラグビー発祥記念碑が設置された。写真は Illustration from The Graphic.April 18.1874.From the collection

of Mike Galbraith.

『明治天皇』を読む(15)
by かおる at 2019/10/10(木) 19:31:02 No.20191010180939 コメント】  削除 引用

[壬午事変と日本国民の変化] 明治15年ソウルで起きた朝鮮軍兵士の反乱軍暴動を壬午事変と言う。この事変の事後処理として締結された

済物浦条約は次のことを規定していた。

1、朝鮮政府は日本人を殺害した犯人を20日以内に逮捕し処罰する

2、朝鮮政府は日本公使館に加えた損傷及び遠征の費用 として50万円の補償金を支払う、支払いは毎年10万円ずつ5か年にわたる

3、公使館は今後若干名の日本兵士によって警護されることになる 

4、朝鮮政府は大官を特派し国書を以て日本国に謝罪する

 朝鮮国王はこの度の事件を遺憾とし日本政府の誠意に対して謝意を表し贈り物を献上のため政府高官朴泳孝等3人を派遣してきた。国王か

ら国書を奉呈し天皇の業績を称え、両国の和平と末永い友好を願う朝鮮国王の意図を伝えた。同時に朝鮮の現状を述べ、日本が朝鮮の独立を

助け財政的援助を与えてくれることを懇請した。一方、日本ではこの事件が引き金となって、日本国民の間に熱烈な愛国心が目覚めた。従軍

を志願する者、軍資金の献金を申し出る者が続いた。
『明治天皇』を読む(14)
by かおる at 2019/10/2(水) 17:20:26 No.20191002163739 コメント】  削除 引用

[大院君の拉致と済物浦(仁川)条約] 朝鮮反乱軍の暴動で受けた損害を賠償するよう朝鮮国王に要求したが、朝鮮政府は要求を受け入れ

る様子がなかったので花房公使は国王に最後通牒を突き付けて仁川に戻った。一方、朝鮮国王は宗主国の清国に暴動の鎮圧のため朝鮮に李鴻章

部隊の派遣を要請していた。朝鮮の宗主権を回復する好機と見て、李は躊躇せず軍艦3隻の清国艦隊が朝鮮に向かった。ところが、仁川港には

先に日本の軍艦金剛がいたのでひとまず撤退して、翌日南陽湾から200人の部隊を上陸させた。花房が仁川に到着すると清国側が接触し、属国

の朝鮮の暴動を鎮圧することを申し出たが、花房は朝鮮は独立国であり日本と朝鮮の緊張関係は清国の関知せぬことであると応じた。共同して

反乱を鎮圧しようと持ちかけた清国だったが、日本が拒むことでとんでもない行動に出た。清国艦隊に大院君を拉致し軍艦に運び清国天津に

連行し李鴻章の尋問を受けた。李は大院君に反乱の責任を取らせため北京の郊外に3年間拘禁した。大院君が拉致されたので朝鮮政府は日本側

と交渉に入り、明治15年8月30日済物浦条約を締結し日朝間の緊張状態は終わった。(明治天皇(三)P34〜37から抜粋)
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