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翠嵐6期生憩いの広場

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『明治天皇』を読む(15)
by かおる at 2019/10/10(木) 19:31:02 No.20191010180939 コメント】  削除 引用

[壬午事変と日本国民の変化] 明治15年ソウルで起きた朝鮮軍兵士の反乱軍暴動を壬午事変と言う。この事変の事後処理として締結された

済物浦条約は次のことを規定していた。

1、朝鮮政府は日本人を殺害した犯人を20日以内に逮捕し処罰する

2、朝鮮政府は日本公使館に加えた損傷及び遠征の費用 として50万円の補償金を支払う、支払いは毎年10万円ずつ5か年にわたる

3、公使館は今後若干名の日本兵士によって警護されることになる 

4、朝鮮政府は大官を特派し国書を以て日本国に謝罪する

 朝鮮国王はこの度の事件を遺憾とし日本政府の誠意に対して謝意を表し贈り物を献上のため政府高官朴泳孝等3人を派遣してきた。国王か

ら国書を奉呈し天皇の業績を称え、両国の和平と末永い友好を願う朝鮮国王の意図を伝えた。同時に朝鮮の現状を述べ、日本が朝鮮の独立を

助け財政的援助を与えてくれることを懇請した。一方、日本ではこの事件が引き金となって、日本国民の間に熱烈な愛国心が目覚めた。従軍

を志願する者、軍資金の献金を申し出る者が続いた。
『明治天皇』を読む(14)
by かおる at 2019/10/2(水) 17:20:26 No.20191002163739 コメント】  削除 引用

[大院君の拉致と済物浦(仁川)条約] 朝鮮反乱軍の暴動で受けた損害を賠償するよう朝鮮国王に要求したが、朝鮮政府は要求を受け入れ

る様子がなかったので花房公使は国王に最後通牒を突き付けて仁川に戻った。一方、朝鮮国王は宗主国の清国に暴動の鎮圧のため朝鮮に李鴻章

部隊の派遣を要請していた。朝鮮の宗主権を回復する好機と見て、李は躊躇せず軍艦3隻の清国艦隊が朝鮮に向かった。ところが、仁川港には

先に日本の軍艦金剛がいたのでひとまず撤退して、翌日南陽湾から200人の部隊を上陸させた。花房が仁川に到着すると清国側が接触し、属国

の朝鮮の暴動を鎮圧することを申し出たが、花房は朝鮮は独立国であり日本と朝鮮の緊張関係は清国の関知せぬことであると応じた。共同して

反乱を鎮圧しようと持ちかけた清国だったが、日本が拒むことでとんでもない行動に出た。清国艦隊に大院君を拉致し軍艦に運び清国天津に

連行し李鴻章の尋問を受けた。李は大院君に反乱の責任を取らせため北京の郊外に3年間拘禁した。大院君が拉致されたので朝鮮政府は日本側

と交渉に入り、明治15年8月30日済物浦条約を締結し日朝間の緊張状態は終わった。(明治天皇(三)P34〜37から抜粋)

『明治天皇』を読む(13)
by かおる at 2019/9/24(火) 21:11:00 No.20190924202027 コメント】  削除 引用

[日本と朝鮮との関係を遡って調べてみる]明治15年(1882)7月23日ソウルで朝鮮軍兵士が蜂起した。原因は朝鮮軍隊の近代化を進めてい

た軍幹部に反感を抱いた兵士に不平分子が加わって反乱は大規模になった。反乱軍の一団は朝鮮軍顧問の堀本陸軍少尉を襲い刺殺した。また、

王宮を襲い十数人の政府高官が殺された。他の一団は武器庫を襲い武器を手に取って日本公使館を襲った。花房義質公使は公使館に火を放って

仁川に退避したがここでも追撃され日本人6人が殺され5人が重傷を負った。3日後一行は英国船に救助されて下関に帰国した。これに対して

日本政府は海軍少将仁礼景範と陸軍少将高島鞆之助にそれぞれ軍艦4隻、歩兵一大隊を率い朝鮮に渡り現地日本人の保護にあたらせた。朝鮮兇

徒の行動は残虐でこれは我が国に対する公然たる侮辱である。朝鮮政府は暴動の鎮圧に対して怠慢であり、近隣両国にあるべき情誼を重んじな

かった。にも拘らず、日本は朝鮮の国情を考慮し俄かに懲罰軍を送ることを控えた。花房公使はソウルで朝鮮政府高官と面談して暴徒を処理す

る期日を決めること、もし朝鮮政府が犯人を匿って処罰しなかったり、談判に応じない場合それは明らかに和平を破る意図ありとみなされる。

その場合花房公使は直ちに最後通牒を突き付け陸海軍と共に仁川に軍を進めるよう指示されていた。日本政府は朝鮮政府が意図的に和平の関係

を壊したとは見ておらず誠意をもって両国の修好の歌を保全できるように鋭意努力し、この事件をきっかけに永遠の和平を獲得する手段とする

よう力を尽くすべしと指示された。

『明治天皇』を読む(12)
by かおる at 2019/9/17(火) 23:34:48 No.20190917222702 コメント】  削除 引用

[明治元年以来、朝鮮はどうしても交渉を拒んでいたがやっと江華島事件で会談がもたれた] 明治8年9月20日朝鮮半島江華島で事件が起き

た。朝鮮半島西岸を航行中の日本の軍艦雲揚は清国へ向かっていたが、飲み水が足りなくなったので江華島沖に投錨し、水を求めて上陸地を

探していたところ突然小銃が乱射され砲台から攻撃された。日本側も反撃し砲台を破壊し永宗島を占領した。日本側死者1人、朝鮮側死者

35人、捕虜16人、雲揚は9月28日長崎に帰港した◆江華島での交戦の報せが届いた翌日閣議は朝鮮に在住する日本人居流民保護のため軍艦

春日を釜山に派遣した。江華島事件をめぐって世論がわいた、しかし政府は、国内の問題があるためすぐには行動に出るわけにはいかなかっ

た。明治9年1月6日陸軍中将兼参議の黒田清隆が特命全権大臣となって軍艦2隻、輸送船3隻、海兵800人を率いて朝鮮へ向かった。日本艦隊

はソウルから32キロ離れた江華島沖に投錨、黒田は朝鮮代表と談判した◆日本は朝鮮の宗主権を主張する意図はないとし、日本の船が砲撃さ

れた理由を質した。朝鮮の返事は日本の海兵がヨーロッパの服装をしていたのでフランス兵かアメリカ兵と間違えた、と。船籍に掲げた日本

の国旗について知らなかったと繰り返すのみで謝罪しようとしなかった。しかし2月27日に黒田清隆、井上馨と朝鮮の代表との間で修好条規

が調印された。この条約は日米で交わされた条約と同じ重要性を帯びていた。即ち日本は鎖国を続ける朝鮮を開国させ外交関係と貿易へと道

を開かせたのだった。
『経済学者たちの日米開戦』を読む
by かおる at 2019/9/9(月) 01:11:12 No.20190908232711 コメント】  削除 引用
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No.1

太平洋戦争の前、陸軍は経済学者を集めて日本と英米の国力差を調査させていた。開戦に至った
のはその無謀さを指摘した報告書を陸軍が握りつぶしたからだというのが通説だった。だが、
『経済学者たちの日米開戦』は報告書が経済力格差は大きく、長期戦になれば必ず敗北すること
を誰もが知っていたとし、なぜリスクの高い選択がされたのかを経済学の知見から示した◆経済
学では人間は合理的に意思決定すると考えられてきたが、実際には人間は非合理的に見える
行動をとることがよくあるという。例えば、AとBの二つの選択肢でどちらが望ましいかという問
題がある。Aは確実に三千円支払わなければならない Bは8割の確率で四千円を支払わなければ
ならないが、2割の確率で一円も支払わなくてもよい。この場合どちらを選ぶか実験をしてみる
と実際には確実に損失が生じるAよりも、高い確率でより多くの損失になるが、低い確率で損失
を免れることもあるBを選ぶ人が多いことが分かっている。つまり、人間は損失を被る場合には
リスク愛好的な行動をとるのである。なぜこのような選択肢が選ばれるのかを説明するのが、近
年急速に発展している行動経済学のプロスペクト理論である(カーネマンはこの業績でノーベル経済学賞を受賞した)人間は
損失が発生する場合には少しでもその損失を小さくすることを望む(損失回避性)、低い確率であっても損失が少なくなる可
能性のある方に魅力を感じがちである◆この経済学の理論を昭和十六年8月以降の日本の状況にあてはめてみる。米国の石
油禁輸により日本の国力は弱っており開戦しない場合、2〜3年後には確実にジリ貧になり戦わずして敗北する。他方、国力の
強大な米国を敵に回し戦うことは非常に高い確率で日本の敗北を招く。しかし、非常に低い確率であるが日本が東南アジアを
占領して資源を獲得できれば少なくとも開戦前の国力は維持できる◆こうした研究は正確であり、合理的に考えれば開戦は無
謀なことはわかるのであるが、この経済学の理論に基づけば現状維持よりも開戦した方がまだ僅かながら可能性があるという
リスク愛好的な選択になってしまう。無謀な開戦に至った訳を経済学の理論から説明した興味深い本である。

幻の同窓会
by ひろみ at 2019/9/4(水) 23:26:33 No.20190904215943 コメント】  削除 引用
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No.1

新横浜のホテルで同窓会が開かれた。傘寿を過ぎてすでに鬼籍に入ったものも多い。そのうちの一人、畏友間宮

聰夫君が逝ってから今年で11年になる。崎陽軒で行われた同窓会では病を押して出席しみんなと親しく話してい

た。誰よりも翠嵐を愛した男だったから今年の同窓会にもきっと出席したかっただろう。同窓会の数日後、本屋

で黄色の表紙の「ゴルフトーナメントスポンサー興亡史」が目に留まった。その本に間宮君のことが書いてあ

るのを見つけた。ゴルフトーナメントがテレビで放映されるようになったのは、高度経済成長の60年代後半で

あった。その仕掛人は当時、電通ラジオ・テレビ局にいた間宮聰夫だとされる。間宮は企業におけるマーケティ

ング戦略の一環として、新たな時代のスポーツイベントの在り方を「見るスポーツ」と「メディア・スポーツ」

という表現で二つに分けて考えた。見るスポーツは文字通り対価を払ってくれる観客を集めるイベントであり、「メディア・スポーツ」は

イベントそのものをテレビ局から放映権料の取れる”商品”として位置付けた。もとよりプロゴルフトーナメントは後者であり、こちらの

方がマーケットの広がりがある。それまでトーナメントを主催する冠スポンサーはゴルフの関連企業と言うのが定番だったがマーケティング

戦略としてはゴルフと関係のないスポンサーの方が自社のビジネス市場を広げられる。そういう間宮の観点に副社長だった鳥井が賛同して

スタートしたのがサントリーオープンだったのである。(サントリーレディースオープン、115頁から引用)間宮君がトーナメントにおけ

る冠スポンサーの考えを変えていったのか。と・・・・同窓会には出てこなかったけれど、彼と久しぶりに出会うことができた。
本日の翠嵐同期会
by どか at 2019/8/23(金) 19:47:10 No.20190823194142 コメント】  削除 引用
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No.1

新横浜国際ホテルで開催された同期会に参加してきました。

この年になると参加者も減って33人という事でした。

ちょっと淋しかったのですが、皆さんまだまだ元気で盛会裏に終わりました。


『明治天皇』を読む(11)
by かおる at 2019/8/18(日) 10:28:35 No.20190818090958 コメント】  削除 引用

[西郷の朝鮮派遣をめぐる攻防] 西郷の朝鮮派遣は二転三転した。三条太政大臣と岩倉右大臣の苦悩が続いた。「明治天皇(二)」から

日時を追って書き出してみる。

明治6年10/14 閣議で岩倉は次のような見解を述べた。日本が目下直面している重大事は三つある。樺太をめぐるロシアとの紛争決着、台湾

の生蕃人討伐、朝鮮への使節派遣である。なにも朝鮮派遣だけが急務ではない。むしろ樺太事件の解決こそ急がなければならない、と。西郷

は怒りを露わにした。四人の参議(板垣、後藤象二郎、副島、江藤新平)が西郷支持、3人(大久保、大隈重信、大木喬任)が岩倉支持で

あった。

10/15 三条太政大臣は西郷支持を表明した。これで西郷の朝鮮派遣は決まったかのように見えた。

10/17 大久保は征韓論に抗議して辞官を申し出た。この日の廟議は三条のほか征韓派の参議のみ、西郷は勅裁を得られよと督促する。

三条は「一日だけ猶予ありたい、明日必ず奏上する」と言った。廟議後、三条は岩倉邸に見舞う。岩倉の示唆で西郷を招き説得するが西郷は

譲らなかった。

10/18 三条、早暁自宅で昏倒、太政大臣の執務が出来なくなった。

10/19 三条実美人事不省になる。西郷案の処置決定に関して極度の緊張が原因だった。

10/20 天皇が岩倉宅を訪問して太政大臣代理を任命した。

10/23 岩倉は朝鮮使節派遣に対する反対意見書を上申して天皇の裁断を仰いだ。維新以来僅か4,5年で国の基盤は不安定である。軽々し

く外国と紛争を起こしている時ではない朝鮮との戦争は使節の到着と共に勃発することが見越される。使節派遣は国力が充実するまで待つべ

きである。

10/24 天皇は岩倉の意見に賛成した。この天皇の一言で征韓論は消えた。西郷と西郷支持の参議は全員病気を理由に辞任した。
『翔ぶが如く』を読む(32)
by かおる at 2019/8/6(火) 11:54:14 No.20190806105224 コメント】  削除 引用

[ 議事は西郷と大久保の喧嘩で進行した。討議は大久保が優位に立ったが、結論が出ないまま翌日に持ち越した。だが、翌日の廟議では

西郷の朝鮮派遣が逆転して決まった] 西郷は不死身であった。彼は大久保のところに駆け寄り「貴公はそういわっしゃるが拙者の渡韓のこ

とは前の廟議で決まっていることでごわす」西郷はこの既定事項で押し切ろうとしたが、大久保はその廟議がどういうものであったか自分は

不在だったから存ぜぬと言った。西郷は色をなしそりゃ貴公本気の一言か。と言うあたりから怒気が西郷を動かし、もはや議論ではなく喧嘩

であった。翌日十五日廟議は再開された。昨日に引き続き木戸が欠席した。薩摩嫌いの木戸はこの廟議を薩摩派の私闘争的要素が強いとみて

おり西郷の征韓論には「無謀の暴論」と切り捨てている。もっとも木戸の欠席には他の理由もあった。もし木戸が廟議に出席すれば征韓論

に反対し、テーブルの上だけでは済まず、軍事的騒乱を引き起こす可能性あった。なぜならば長州系の軍人はすべて反征韓論者であり、薩長

二つの軍内部の勢力が激突する恐れがあった。それがもとで薩長の抗争になり明治政権が二つに割れてしまう羽目になり兼ねなかった。午前

十時に始まった廟議は大久保ら反正韓派にとって信じがたい逆転が起きた。岩倉の口から、西郷を大使として韓都ソウルに派遣することに決

しました。左様お心得くださいますように。と素っ気ない切り口上で表明した。事情は以下のようである。征韓論の論争は双方が半々である

以上、太政大臣の三条と右大臣の岩倉の二人で採否を決めざるを得なかった。二人になった時「万策尽きました」三条が血の気の薄い顔を

岩倉の方に寄せてささやいた。征韓論はもはや回避しがたい。西郷の背後勢力が暴発すれば政府が潰されてしまう。それよりも大久保を捨て

ようと三条は考えた。岩倉も三条の考えをやむを得ないと思った。廟議の終了後、太政大臣三条は憔悴して帰宅した。

『翔ぶが如く』を読む(31)
by かおる at 2019/7/31(水) 17:13:20 No.20190731161954 コメント】  削除 引用

[西郷の朝鮮派遣要請が廟議で論争になった。この問題はやがて西郷の下野にまで発展する政変である。そこで再び『翔ぶが如く(3)』から

征韓論の廟議での攻防を読み直すことにした] 明治6年8月14日廟議が始まるのは午前10時であるが、三条太政大臣と西郷の席が空いている。

この朝7時に西郷が三条の家を訪ね猛犬のように噛みついていたからである。このため廟議は午後から開かれることになった。岩倉が議長役

で議題を説明した。「参議諸侯にお集まり願ったのは外交上の諸問題が山積しています。これについて軽重緩急を論じて頂きたい」と語りだ

した。本来なら西郷参議を朝鮮に使いせしめる件について議したいと言うべきはずのところが、現下の外交上の一般問題について議したいと,

岩倉の巧妙なところであった。西郷がすぐ反応した。「朝鮮問題についてではござらぬのか」「朝鮮の無礼暴慢、なるほど重要である」

そもそも朝鮮は清国を宗主国としてその後ろ楯の大きさを恃むがゆえに日本に対して驕慢である。朝鮮の背後には清国だけでなくロシアも

控えている戦いともなればこの両国が黙っているかどうか、決して黙視しない。と岩倉は言う。西郷は「遣韓大使のことは去る8月17日

の廟議ですでに決まっていることで、今ここでそのことの是非を論ずる必要はない」そして大久保が日本の国家財政が逼迫していることを

述べた。「戦いによって平時でさえ国費を賄うに足りぬ物産がいよいよ減じ、かつ軍艦や銃砲、弾薬、軍服など生産する能力がないためにそ

れらすべて外国から買わねばならないため、すでに日本の外債は500万両という多額に上りその大部分を英国から借りているから今戦争に

よってそれ以上借り、かつ返済の見込みがないとなれば国家の独立はどうなるのか。かってインドの諸侯は互いに相戦って疲弊し助けを英国

商社に求め、やがてはインドそのものが英国の所有になったように日本も朝鮮もこの戦によってインドの如くなるのは火を見るよりも明ら

かである」征韓策を取れば国家は滅亡するという大久保の論旨に駁論できなかった。
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