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翠嵐6期生憩いの広場

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とんがりの系譜 12 (部落の人々)
by どか at 2019/2/16(土) 18:46:55 No.20190216184427 コメント】  削除 引用

八丁部落には7〜8軒の家はあるが住んでいるのは3軒のみ、後は山北駅付近に出てしまっている。

町へ出た家は屋敷や畑や茶畑があるので八丁へ通ってきている。

我々が酋長と呼んでいたYさんが押しも押されもしないこの部落のリーダーだった。

我々はとにかくこの部落の人たちに信頼されることが必要だった。

こんな山深い部落に都会から来た人間が入り込むためには信頼関係の構築が大切であった。

毎月25日には部落の寄り合いがありチョウサンと二人で勤務終了後欠かさずこの会に顔を出すことにした。

おばあちゃんたちに気に入られるよう毎回生活用品等のお土産を用意して通った。

私たちが山小屋を立てるために皆さんの土地を貸してもらいたい、また夜逃げした業者の残していった建造物はすべてこちらの責任で撤去する。
私たちには弁護士の会員もいる等、酋長からも話しを伝えてもらった。

一年後、ようやく契約にこぎつけた。

3年間は撤去作業等のため地代は無料としてもらった。


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とんがりの系譜 11 (山北)
by どか at 2019/2/11(月) 22:17:37 No.20190211221352 コメント】  削除 引用

これはと思われる場所が山北の奥に見つかったのでとりあえず状況を聞いてきた。

近郊ドライブから帰ったチョウサンから報告があった。

鶏舎の経営に行き詰まった業者が設備をそのままに夜逃げしてしまった場所がある。

地主は過疎化の部落民で彼らも他人の物件故手を付けられず困っている。

ここを俺たちで整備して借りちまおうではないか?土地はかなり広い。

土地は5人の地主に分かれていた。

県道が部落まで通っており入山には申し分がない。

11棟の鶏舎は取り壊し可能とみられる

前にはやはり横浜綱島からここに進出し養魚場を開設したI氏が先住している。

ここから気長な部落への打診が始まるのである。

『翔ぶが如く』を読む(27)
by かおる at 2019/2/4(月) 11:52:16 No.20190204111439 コメント】  削除 引用

[太政官政府への不満] 諸隊の反乱がおこった長州藩は幕末から戊辰にかけて、奇兵隊その他の徴募軍を散々使っておきながら、新政府は

これに対して十分の身分保障や褒賞を行わなかった。明治2年の諸隊反乱の時期と前原の帰郷がたまたま重なったため、太政官は一旦許可し

ていた前原の帰郷を差し止めた。前原が帰郷すれば諸隊が前原を擁して立ち上がるという懸念があった。諸隊の乱は木戸孝允が直接山口に

乗り込んで鎮圧した。しかし、この反乱の後、長州人の不満は潜在化していった。明治3年10月前原は念願かない萩に帰った。

攘夷という言葉からみても、外敵を打ち払うこと、強烈な排外的民族主義によって幕府は倒れ太政官政権が樹立されたが、生粋の

排外的民族主義者にとって新政府は旧幕府と似たようなものだった。我々は利用されたという思いが濃い。

(このところを読んできて前原の太政官の現状に対する不満を理解できるよう気がした。著者が前原について詳しく書いているのは

前原に対する思いが強かったからだと思った)

『翔ぶが如く』を読む(26)
by かおる at 2019/1/31(木) 12:03:39 No.20190131111836 コメント】  削除 引用

太政官政府が脆弱でいつ倒れるかと思われたのは、久光や西郷の薩摩勢力の他に各地で反太政官の活動が起きていた。長州人の中にも

反太政官派の動向があった。萩の乱を起こした前原一誠がいた。(『翔ぶが如く(六)』は各地の反太政官活動を書いているが、かなりの

紙数を前原一誠について使っている)[前原一誠のこと]前原は松下村塾の塾生であった。戊辰戦争では北越に従軍した後参議になった。

程なく兵部大輔大村益次郎が暗殺されたので前原が後任になった。前原は太政官の現状に対する不満があったのか具体的にはわからないが

しきりに帰郷を希望していた。前原の幕末の履歴をみると他の志士たちのように家郷を捨てて四方に奔走するようなことをしていない。

一誠は本格的な儒教徒と言えるかもしれないが、儒教における孝の実践倫理として父母が老いた場合は子たるものは遠くに旅をしない、

ということがある。一誠はこれを実行していたとみられる。
とんがり新春の集い
by どか at 2019/1/27(日) 18:45:48 No.20190127183810 コメント】  削除 引用
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昨日、今や毎年恒例となったとんがり山岳会生き残り仲間の集いを反町のスナックを貸し切り催した。

男女合わせて15人、終日大いに盛り上がって大変楽しかった。

美しのメッチェンや放浪の唄等涸沢合宿を思い出すトンガリソングも飛び出し最後にここに来られない会員への「遥かな友に」を合唱して終わった。

写真1  記念撮影
写真2  初めて参加してくれたちゅうん子が元気にカラオケ

追、とんがりと切っても切れない思いの 西口「エリナイト」が今月いっぱいで消え去ると聞き夜はここに皆で押しかけ別れを惜しんだ。
『翔ぶが如く』を読む(25)
by かおる at 2019/1/14(月) 10:05:18 No.20190114094525 コメント】  削除 引用

[島津久光の無謀な提言] 久光は就任してすぐに25条の提言をした。服装を先王の時代に戻せ、暦を太陰暦に戻せ、洋風の兵制を元に戻せと

言ったもので三条も岩倉も閉口し後日書面で返答した。久光は失望して辞める気になった。久光は参朝しないまま書面で人事にまで動議を出

した。ついには太政大臣三条実美を弾劾した上奏文を天皇に出した。久光のこうした行動の背後には、自分の藩が天皇と太政官政権を作った

という自信があり、その上鹿児島には太政官政府を圧倒できるだけの武力が存続しているという自信があった。やがて天皇は久光を呼び口頭

で「三条実美は維新以来功労があるので卿が建言するところ、採用できない」と短く言い上奏文を久光に返した。久光の上奏文と西郷の

征韓論の二つの却下はすべて大久保の仕業と西郷勢力は見た、事実そうでもあった。


七福神めぐり
by doka at 2019/1/8(火) 21:59:58 No.20190108215732 コメント】  削除 引用
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谷中七福神めぐりのウヲーキング会に参加してきました。
今年は田端駅から東覚寺 福禄壽・恵比寿・布袋尊・壽老人・毘沙門天・大黒天と辿り上野不忍池 弁財天で完拝となるコースでした。
12000歩のウヲーキングを楽しめました。
この会は毎月ウヲ-キングを計画実施してます。
どなたか仲間に入りませんか?

謹賀新年
by どか at 2019/1/2(水) 07:52:34 No.20190102074721 コメント】  削除 引用

皆様あけましておめでとうございます
本年もこの広場をどうかよろしくお願いいたします
今年もアンチエージング、長生きしましょう

これから箱根駅伝を応援しに行きます
今年は明治を応援です
『翔ぶが如く』を読む(24)
by かおる at 2018/12/29(土) 08:08:20 No.20181229073159 コメント】  削除 引用

[島津久光のこと] 島津久光が新政府から左大臣に任命されたのは明治7年4月のことである。この任命は西郷が東京を去ってから6か月後の

ことで、政府が動揺していることが窺える。西郷の下野と一緒になって、近衛将校の大挙辞職で薩摩が政府に敵対するようになった。政府は

当時鹿児島に居た久光までもが大結集するやもしれず、それを未然に防ぐため、久光を引き出すため勅使まで立てた。そして左大臣の名を

与えて引き出した。幕末ぎりぎりの頃、久光は病で鹿児島で臥していた。この間に鳥羽伏見の戦が起こり戊辰戦争の火の手が広がってやがて

首都が東京に移り太政官時代が始まる。保守的な久光は西郷と大久保が勝手に藩の力を使って思わぬ世にしてしまったという憤りが残った。

その久光が太政官の第二席である左大臣になった。政府は彼のために至れり尽くせりの優遇をした。しかも彼ほど業績のない男はいなかった。

逆に国家挙げて彼に業績を作らせないようにした。もし彼の政策や献策を容れれば明治政府は崩壊すると思えた。危険人物であるから

いっそ政府部内に取り込もうとして左大臣にまつり上げた。
『翔ぶが如く』」を読む(23)
by かおる at 2018/12/22(土) 10:18:04 No.20181222090605 コメント】  削除 引用

NHKの西郷どんが終わってしまったが「翔ぶが如く」はまだ六巻を読んでいる。 [地方官会議で薩摩の反発が出る] 浅草本願寺の大書院

を議場に明治8年6月地方官会議が開かれた。議題は三つ、第一は府県の警察制度のこと、第二は堤防・道路・橋梁についての法案、第三は

府県会を民選にすべきか官選にするかということである。この地方官会議もゆくゆくは民選議会に発展してゆくとして木戸が大久保に約束

させたものである。出席した地方官は民会を開くという点では異論はなかった。ただし、鹿児島県令大山綱良だけが「民会開くべからず」と

言うのである。薩摩は独立国のように振る舞っていた。新政府が封建制を崩壊させたため士族の経済が立ち行かなくなった。それで鹿児島県

のみは諸政令を無視し独自の行動をとりつつあった。薩摩人は倒幕をやったのは自分達だという自負と、更にはその功に酬いられることなく

大名と士族の特権を廃止されたという憤激である。この考えの代表が島津久光だった。鹿児島県はあくまでも士族政治で士族の指導性と百姓

に対する強烈な差別があった。民会というのが百姓の県政参加を許す制度である以上、鹿児島県ではこれを受け容れられないのである。元々

薩摩藩では日本の他の地方と異なり富農、中農がいなかった。それほど藩が百姓を搾取し続けた。

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