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きたろうの独り言 25
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知らぬこととはいえ、奥方ご母堂の逝去に愁傷を申し述べる時宜を失し、礼を喪うことになった。
ご寛恕下されたい。
更新された宮司の独り言を読んだ。
さもあるらむ、と心痛を慮る。
かたやで、先日、読んだ本の一節を思い出した。
というよりも、この情景が忘れられずにいたのだが、この度の宮司の独り言と重なって見えたのである。
概要以下の如し。
年来の心友が急逝したのを聞いた老剣客が、
「やつの死に顔なぞ、見たくもないわ。」
といい、葬儀にも参列せず、妻ひとりをその心友宅に向かわせた。
シチュエーションはまるで違うし、行かぬ理由も異なる。
が、おそらく誰もが、この老剣客の気持ちも、宮司のこころ根も、心底理解し、納得していよう。
逝去を痛む気持ちは、なにも葬儀場でしなければならぬものではない。
むしろ、弔辞を読みたがる栄誉好きの老人がいると聞くが、そのような、上っ面の悲しみよりは、地球の裏側でこころの井戸の底から痛むほうが、いかに故人が喜ぶか知れない。
「死ぬ」ということは、まことに恐ろしくもあり、悲しくもある。
或る作家が、次のように言っていた。
人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向かって歩みはじめる。
死ぬために、生きはじめる。
そして、生きるために食べなくてはならない。
何という矛盾だろう。
これほどの矛盾は、他にあるまい。
つまり、人間という生き物は、矛盾の象徴といってよい。
このように、悟り切れれば、それは、釈迦牟尼仏のようなものだが、凡人にはなかなか、その心境に至るのは難しい。
そういう者でも、ふうっと、水が砂に染みこむように納得してしまう、そして、心強くさせてくれる詩があった。
紹介して、哀悼の意を伝えたい。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
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