ありがとうがたくさん言える人は、間違いなく幸せな人。
ありがとうが言えない人はいつも不幸せそう。
ありがとうを言うべき時に言えない人には、いつも残念に思う。
その人の不幸が見えてしまい、悲しくなってくる。
ありがとうって言葉は、誰でも言われると嬉しいもの。
言うべき時でなくても、言って何の損はない。
言うべき時に言えない人は論外。それは最低限の礼儀。
だけど、
本当は、こんなこと、礼儀だからやるものでは無いのだ。
生き方そのものとして、ありがとうの気持ちが出せない人は哀しい。
どんなときでも、ありがとうが言える人になりたいと思う。
今までに出会ったそういう人は間違いなく幸せそうに生きていたから。
最近、寂しい話がちらほら。
本業の会社で、またしょうもない裏切りというか、何というか。
社員全員の生活と命を守る身分についてから、なおさら大事にしているのは、日頃の誠意と仁義である。
そして感謝を忘れないこと、驕らないことだろう。
若い頃に、それと正反対の世界にいた。
欲望のままに生きる餓鬼と修羅の世界にいた反動は、後に自分を相当な期間にわたって苦しめた。
その間に、多くを犠牲にし、多くを失った。迷惑を掛けた人は数知れず。
だけど、今となってはそれを学ぶために、そこにいたのだと思っている。
取引相手が仁義を捨てたとき、一度目は寛大に扱うことにしている。
それが先代の経営者から学んだ人生を穏やかにするための知恵。
しかし、二度目は無い。それが30歳以降の自分のルールだ。
仏の顔も三度までだが、自分は仏ではない。
相手が仁義を捨てるならば、こちらも容赦なく、鬼となろう。
仁義なき相手に仁義では戦えぬ、より強大な力で圧倒せぬ限り、勝利はないのだ。
が、そうやって生きてきたが、一時でも、鬼となり、修羅となった反動は大きい。
心をしっかりと保たないと、正気の世界に戻ってこられない気がする。
だからこそ、毒気の血しぶきを浴びるのは、自分だけでいい。
これからの時代に本当に必要なのは、真実の豊かさを知っている人間である。
日本人の多くは、豊かになったが、それは物質的であり、精神的には決して豊かではない。
むしろ戦前の人に比べて、精神的な豊かさを大きく失ってしまったと考えている。
物質的に豊かで、精神的に貧乏な人が多いこの日本でも、わずかながら、そのどちらも豊かな人間がいる。
そういう人間がうちの会社には割合として多い。
彼らこそが、新しい日本を切り開いていくのだという気がしてならない。
そのための自分なのだ、と最近は良く思う。
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