江別神社「宮司の独りよがり」

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新年のご挨拶 引用
江別神社宮司 2013/12/31(火)23:26:18 No.20131231232607 削除
明けましておめでとう御座います。
新春に当たり皆様の日々のご平安、またご多幸を心よりお祈り申し上げます。

神社の宮司職とは、その地域社会に伝わる伝統文化の中でも、最も古く長く
伝わる「祭り」を守る事が主な職務であります。

しかし、宗教に携わる身でもありますから、常々「人が生きるとは何か」
「死ぬとは何か」を考えてもおります。

そして、最近よく考えるのが「この世で自分の命は何番目に大切か」という
テーマです。

例えば女房と息子二人の一家四人で船に乗っていたとして、その船が沈没しそうで
しかし、救命ボートには三人しか乗れないとしたら、自分はどうするだろうか?と。

私はまったく迷うことなく女房と息子二人を救命ボートに乗せるでしょう。

間違いなくそうして、頬が引きつりながらも精一杯の笑顔で最後の別れを
告げることでしょう。

そうなると私の命は自分にとって「一番大切なもの」ではなくて「四番目」と
いう順位になります。

この事に気が付いてから更に「自分の命よりも大切なもの」「自分の命を賭けて
でも守りたいもの」を探ってみると、結構ありました。

それは、江別神社を護る事であり、やや抽象的ですが自身の生き様の
矜持を保つことです。

 一昨年の春に九十七歳の岳父が、静岡の特別養護老人ホームでひとり
泉下へと旅立ちました。

もう何年も以前に私の両親は亡くなり、十年前に義母も亡くなりました。
岳父は、私が親と呼べる最後の人でした。

ある人の本に「人は用事があるから生きているんだ」としたためてありました。

九十歳をとうに過ぎ、連れ合いにも先立たれ、しかも認知症を患い、人の手を
借りなければ生きていけない岳父です。

決して長生きを、もろ手を挙げて喜べる状況ではありません。

岳父が己の末期(まつご)について、自分自身で決断を下す事が出来ない
状況であるにせよ、私は「岳父はこの世にあといったい何の用事があって
生きているのか」をいつも考えておりました。

そして、このテーマについては答えを見つけられませんでしたが、
「人が生きるとは何か」について随分と勉強させられました。

私の住居が遠隔地のため、女婿として岳父に何もしてあげられなかった事に、
今更後ろめたさも感じております。

しかし、一人ぼっちで寂しく暮らす認知症の岳父であっても、私に様々な
示唆を与えてくれました。

我々は人生において「自分の意志で決められる事」と「自分の意志で決められない事」
の中で生きております。

そして「自分の意志で決められない事」については、これはもう受け入れるしか
方法はありません。

「自分の意志で決められない事」とは、釈尊が「人の逃れられない苦しみ」として
教える「生老病死」でありましょう。

 さて年が明けて、私は還暦を迎えました。

還暦は本掛返りと言って、十干と十二支の組み合わせからすると、六十一年目で
元の干支に戻ります。

ある意味で人生の再スタートと言えるので、赤ちゃんをイメージした赤い着衣を
身につけて祝います。

しかし、人生八十年と言われる近年では還暦は歳祝いと共に「厄年」とも捉えられる
ようになりました。

まさに「禍福はあざなえる縄のごとし」と考えているのです。

狭心症を始めいくつもの持病を抱える私にとって「還暦まで元気で働ける身体で
いること」はここ何年来の目標でありました。

とりあえずの目標を果し、あと何年元気でいられるのか分かりませんが
「自分がこの世に必要とされている」ということを実感できる人生を歩みたい
と願っております。

還暦は人生の中でも大きな節目で、どの様な禍福が待ち受けているか知れません。
しかし「どっからでもかかって来い」という心境で、この一年を過ごそうと思います。

今年もどうか宜しくお付き合い願います。

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