みんなの広場「こころのパレット」

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〈唸 り B〉 引用
池見 隆雄 2012/8/8(水)15:10:21 No.20120808145346 削除
 「第9」の録音から5年後の、ベルリンに於けるこのライヴは、国内盤では出ておらず、輸入盤のみのようだ。
オーケストラの響きの重厚さが、顕著に増しているのに、まず動かされる。「重厚」では足りない――
地の底から響いてくるとでもいうか。
 また、伸縮自在性を、帯びているようにも思う――とは、高い技術力を備えたオーケストラが、
指揮者からのどんな指示へも、即座に反応できる態勢を調えているということではないか。
 録音技術は日進月歩だから、5年という歳月は、そのために十分長い。
スタジオとライヴという条件・情況の相違もあるだろう。しかし、この響きの質の変様は、私には、
何より、指揮者とオーケストラの信頼関係の進展に由来しているように思えた。
 さて、第2楽章の件の箇所にさしかかると、持参者の言うごとく、異音が混入してくる。
それに、いびきというレッテルが貼られていても、納得行かなくもない。しかし、なお耳をそばだてていると、
それは、必ずしも曲想(曲へ込められた作者の思い)に添ってなくもない。
 私はふと、レコード雑誌などで見かけた、オーケストラの録音風景を思い出す。
マイクの少なくも一本は、指揮者の頭上――かなり高い位置ではあるが――に装置されている。
そのためか、指揮者が、ステージ上を指揮台へ向かう足音や、譜面台にタクト(指揮棒)の当たるのが、
編集の仕方によっては、残されているライブ録音もあった。
 マーラーは、この楽章へ、「テンポ・ディ・メヌエット、ゼーア・メーシィヒ(非常に控え目なテンポで、急がずに)」、
及び、「グラッツィオーソ(優美に)」との速度と表情の指示を与えている。
けれど、気取った優美さではなく、民謡風でもあり聴き手の側も、何らか唱和すべく誘われるようでもある。
指揮者に到っては、音響の渦の中心に位置しているわけだ。
 人に起因するには違いないその異音を、私は、聴衆の一人のいびきでなく、
指揮者バルビローリの唸り――楽曲への唱和だと推定した。

 人の言語の起源を、動作の延長だとする説がある。ある人物が、彼の心の内に蠢いている何らかの情動を、
独りでは持ち堪えられず、別の人物へ、なんとか身ぶり手ぶりで、伝えようとするが、思うに任せない。そこへ、
「アー」とか音声が出る。何らの意味も持ち得ないけれど、当人の内面の有様が、響きの質や大小、抑揚にこもっている。
こうした多くの人の体験、努力が結集され、長い歳月を土壌として、言語へと整備されて行った。あるいは歌謡へ。
 しかし、言語の原初形態近似の唸りや嘆息は、未だに生きている。
私たちは、折々、そう表すしかない情況に置かれるのだ。

 話を、もう一度、サー・ジョン・バルビローリへ戻す。
 彼は、1970年、大阪で開催された万国博覧会に当たって、ウィーン・フィル率いるカール・ベーム、
スイス・ロマンド管率いるエルネスト・アンセルメ、クリーヴランド管(アメリカ)率いるジョージ・セルらに連なって、
ニューフィルハーモニア管(イギリス)ともども初来日の予定だった。
 出国直前、管弦楽団と入念なリハーサルを行って充足した一夜、71才で急逝。
マーラーの「交響曲第3番」のライヴは、遺された彼の最後の録音かもしれない。

(バルビローリ指揮=ハレ管弦楽団のシベリウスは、元映画青年さんの愛聴盤でもあったね。)

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