みんなの広場「こころのパレット」

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〈コッコおばちゃん F〉 引用
池見 隆雄 2012/8/30(木)14:38:59 No.20120830141740 削除
 やはり一月半ば、平川少尉が、会所経営の片腕であった坂井喜代次氏へ宛てた音信から、

   当地における、将兵の労苦にも筆舌の及ばないものがあります。
   適水のない島(火山島でありますから出ても硫黄泉)、青野菜の出来難い土地、
   しかも之に膨大な陸海の兵力を包蔵しておりますための日常の苦闘、
   乏しい雨が降ると言えばサイダー、あるいは酒の一滴啜っている快味を覚え、
   少しでも量を超すと、直ちに激しい下痢を起こす悪水を常用して、暑熱に青野菜を食べる事なく、
   減食節水裡に営々として日に夜をついで、相援け励まし合って、敵撃滅の陣地を作ってきた過去、
   汗の一升をもって血の一滴を償うべく、死闘を重ねてきた一カ年、全く夢のようです。

 このような悪条件下での生活、重労働のため、在島の日本兵2万余の内、約2割は栄養失調症、熱病のため行動不能、
あるいは病死に到ったとのこと。
 日本軍の地下陣地構築は、機械力に頼らず――頼れず、ツルハシ、スコップなどで13〜20m掘り下げ、
そこから水平坑道を伸ばして行った。高温の有害ガスの噴出にも妨げられ、作業は難航。しかし、ほぼ一年を費やして、
地下の各部屋は通路によって連絡され、全島で、それらの延長が、18キロメートルに達した。
 
 玉名山への爆撃の被害が、他に比べれば少なかったのと、職掌がら、最後まで、食料が跡絶えなかったのは、
平川少尉が手紙を綴るのに、幸いしただろうか。先の少尉の、妻宛ての便りに、句作と名の見えた松本一等兵は、
数少ない硫黄島からの生還者だけれど、平成7年、その人から、二朗さんの質問に応えての返信(夫人代筆)に、

   松本は朝鮮の釜山で招集を受け、たまたま研究者でしたことから、栄養食品工場の方に廻して頂き命を永らえた、
   といつも申しておりました、戦地で作っておりましたのは栄養剤とか酒とかのようで、食料も最後までありましたようでした、

と。また、昭和34年頃、松本氏と平川少尉の長女、潤子さんとの間でも、何度か書簡が取り交わされたようで、
潤子さん宛ての一通から。

   お父上は硫黄島では第二旅団食品工場の○(一字不明)隊長という格で、兵隊の栄養失調対策に苦心されました。
   お父上は真からの技術者で、そして事業家でもあられるようにお見受けしました。その隊長のもとで小生が兵隊として
   お手伝いしたのは、三ヶ月に満たなかった期間であったと思いますが、壕で夜、寝ながらの話は
   (隊長と兵隊が枕を並べて眠ることは、一般には許されなかったのですが食品工場は兵隊が五人しかいなかったので、
   こんなに優遇して頂いていました)帰還後の合成酒工場の経営の抱負でした。
        (中略)
   宗教、思想などについてはあまり突っ込んだお話をした記憶はありません。
        (中略)
   お父上のおやりになったことをお伝えすることが、貴女の考えを地につけるものであればこれからも続けましょう。

 20代半ばの潤子さんは、人としての生き方や生きる意味の指針を、父親の宗教・思想への眼差し、
また戦地での振る舞いから、汲み取りたいと思ったのだろうか?
潤子さんが平川少尉と別れたのは11歳のときだから、父親を、敬慕していたとは、十分あり得ることだ、
でなければ、嘗ての部下に問い合わせるまでの発想は、湧いてき難いだろう。
 三潴郡草葉の大叔母宅で、私と妹が潤子さんに遊んで貰った最後は、確か私が小学校の低学年、
この手紙の数年前ではないかと思う。
 それから四半世紀ほど後、私は、ひょんなことから、この人に再会した。

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