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〈神様からの贈り物B〉 引用
池見 隆雄 2013/10/26(土)21:53:24 No.20131026205332 削除
 極論すれば、『古事記傳』の私への魅力は、
 そこに何が記されているかより、
 己の心の共振を実感させて貰えるところにある。

 宣長は、紫式部の『源氏物語』の研究者、というより熱愛者であり、
 生涯に亘って、弟子たちや、晩年には、求めに応じて公家、藩主など支配層へも、
 繰り返し、その講義を続けていた。

 そして、彼のこの平安文学への高い評価は、
 “物のあはれ”という基準によって量(はか)られる。
 事に触れ、物に触れるごとに――情況に即応して心の動くのをそれは言うのだが、
 『源氏』の描写は、その精妙さ故に、
 読み手に、その機会をふんだんに提供するというのだ。

 心の動きを実感するのみならず、
 これが悲しみ、これが寂しさという具合に、
 その質をも弁(わきま)え知って我が物とする――
 その過程はまた、“物のあはれを知る”と言われる。

 蛇足ながら、“物のあはれを知る”は、
 登場人物の心を己の心として、同様に振舞うというのでは決してない。
 同調、同化、同情などが、共感、共振と異質であるのに、それは通ずる。 
 “物のあはれを知る”とは、
 共感、共振と近似なのだ、と私は思う。

 『源氏』の人物たちの言動が不道徳であると非難する人を、
 宣長は、この作品の本質を見損なっていると激しく排斥する。

 そこで、私にとっての『古事記傳』は、
 宣長作の『源氏』のようなものだ。
 あるいは、宣長は、『古事記』註解という形式で、
 彼の『源氏』を創出したのではなかろうか?
 
 もとより、註解とは、極めて知的、理性的作業であるだろう。
 しかし、宣長の場合、
 それが、『古事記』の叙述への共振と裏表をなしているために、
 味気ないどころでない。

 ある語の解釈を巡って、
 内外の古文書を参酌しつつの推論が推論を喚び、
 それにつれ、文脈が幾らも枝分かれして行くので、
 読み手は途方に暮れかけるのだが、
 やがてそれらが思い掛けない有様で統合され、
 整合性の高い結論が導き出される。

 尤も、私は、その結論の全てを事実・真実と受け取るわけではない。
 整合性とは、宣長自身が得心しているらしいということ。
 それが、私に、嬉しいのだ。

 註解の実際を引用できるといいのだけれど、
 この方面へ不慣れな方へまで、それを語り解く力を、
 まだ持ち合わさない。

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