極論すれば、『古事記傳』の私への魅力は、
そこに何が記されているかより、
己の心の共振を実感させて貰えるところにある。
宣長は、紫式部の『源氏物語』の研究者、というより熱愛者であり、
生涯に亘って、弟子たちや、晩年には、求めに応じて公家、藩主など支配層へも、
繰り返し、その講義を続けていた。
そして、彼のこの平安文学への高い評価は、
“物のあはれ”という基準によって量(はか)られる。
事に触れ、物に触れるごとに――情況に即応して心の動くのをそれは言うのだが、
『源氏』の描写は、その精妙さ故に、
読み手に、その機会をふんだんに提供するというのだ。
心の動きを実感するのみならず、
これが悲しみ、これが寂しさという具合に、
その質をも弁(わきま)え知って我が物とする――
その過程はまた、“物のあはれを知る”と言われる。
蛇足ながら、“物のあはれを知る”は、
登場人物の心を己の心として、同様に振舞うというのでは決してない。
同調、同化、同情などが、共感、共振と異質であるのに、それは通ずる。
“物のあはれを知る”とは、
共感、共振と近似なのだ、と私は思う。
『源氏』の人物たちの言動が不道徳であると非難する人を、
宣長は、この作品の本質を見損なっていると激しく排斥する。
そこで、私にとっての『古事記傳』は、
宣長作の『源氏』のようなものだ。
あるいは、宣長は、『古事記』註解という形式で、
彼の『源氏』を創出したのではなかろうか?
もとより、註解とは、極めて知的、理性的作業であるだろう。
しかし、宣長の場合、
それが、『古事記』の叙述への共振と裏表をなしているために、
味気ないどころでない。
ある語の解釈を巡って、
内外の古文書を参酌しつつの推論が推論を喚び、
それにつれ、文脈が幾らも枝分かれして行くので、
読み手は途方に暮れかけるのだが、
やがてそれらが思い掛けない有様で統合され、
整合性の高い結論が導き出される。
尤も、私は、その結論の全てを事実・真実と受け取るわけではない。
整合性とは、宣長自身が得心しているらしいということ。
それが、私に、嬉しいのだ。
註解の実際を引用できるといいのだけれど、
この方面へ不慣れな方へまで、それを語り解く力を、
まだ持ち合わさない。 |