一わたり『紫文要領』へも目を通したが、
小林氏の『本居宣長』の方は、続けざまにほぼ三遍読み返すことになり、
自ずと、宣長の他の著作へ手を伸ばす勢いも得られた。
『あしわけ小舟』、『石上私淑言(いそのかみさざめごと)』、
『玉勝間』、『うい山ふみ』など・・・・・・・
そして、現在の『古事記傳』。
刊本として出される前、小林氏のその著作は、
雑誌『新潮』に、11年の長きに亘って連載されたが、
その第一回目掲載のとき子安氏は、大学院の後期課程の学生だった。
刊本は、日本思想史の研究者となられた同氏へ、著者自身から献呈されたとのこと。
『宣長問題とは何か』の「結び」によれば、
その読後感は違和感、あるいは重苦しさであって、
それは、小林氏の宣長との縁の結び方、〈内からの読み〉に源を有するのではないかと。
文庫版『本居宣長』(新潮社 上下)の巻末に収載されている江藤淳氏との対談から、
それにつき、小林氏の言及が引用されている(新潮文庫の対談へは、私も、目を通しずみ)、
「方法はたった一つしかなかった。
出来るだけ、この人間の内部に入りこみ、入りこんだら外へ出ない事なんだ。
この学者の発想の中から、発想に添うて、その言い方を綿密に辿り直してみる事、
それをやってみたのです」。
子安氏は、テキストの内側を読む者が辿らなければならないアイテム(項目・細目・箇条)とは、
著者の意図、彼の意識、情念、思惟のあり方、
また、著者の境遇、人間関係、それらを包括する彼の生涯だと指摘される。
しかし、私が、〈内からの読み〉なる言辞から思い浮かべるのは、
子安氏が箇条的に挙げられている、ある個人に属するものどもへ対して、
人と人、人と物との関わりの一形態“共振”するということ。
小林氏は、宣長の発想に、何よりまず共振されているのだ
と私には感受されるわけで。
宣長もまた、古文書に共振しているのが魅力だと前言したけれど、
『本居宣長』を開くとき私は小林氏に共振しており、
小林氏を介して宣長に、
果ては、彼を介して古代人に共振しているのか、
共振現象は、個人を介在させつつ伝播して行くと考えられ得るか・・・・・。 |