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〈神様からの贈り物D〉 引用
池見 隆雄 2013/10/30(水)14:06:09 No.20131030132819 削除
 一わたり『紫文要領』へも目を通したが、
 小林氏の『本居宣長』の方は、続けざまにほぼ三遍読み返すことになり、
 自ずと、宣長の他の著作へ手を伸ばす勢いも得られた。
 『あしわけ小舟』、『石上私淑言(いそのかみさざめごと)』、
 『玉勝間』、『うい山ふみ』など・・・・・・・
 そして、現在の『古事記傳』。

 刊本として出される前、小林氏のその著作は、
 雑誌『新潮』に、11年の長きに亘って連載されたが、
 その第一回目掲載のとき子安氏は、大学院の後期課程の学生だった。
 刊本は、日本思想史の研究者となられた同氏へ、著者自身から献呈されたとのこと。

 『宣長問題とは何か』の「結び」によれば、
 その読後感は違和感、あるいは重苦しさであって、
 それは、小林氏の宣長との縁の結び方、〈内からの読み〉に源を有するのではないかと。

 文庫版『本居宣長』(新潮社 上下)の巻末に収載されている江藤淳氏との対談から、
 それにつき、小林氏の言及が引用されている(新潮文庫の対談へは、私も、目を通しずみ)、

 「方法はたった一つしかなかった。
  出来るだけ、この人間の内部に入りこみ、入りこんだら外へ出ない事なんだ。
  この学者の発想の中から、発想に添うて、その言い方を綿密に辿り直してみる事、
  それをやってみたのです」。

 子安氏は、テキストの内側を読む者が辿らなければならないアイテム(項目・細目・箇条)とは、
 著者の意図、彼の意識、情念、思惟のあり方、
 また、著者の境遇、人間関係、それらを包括する彼の生涯だと指摘される。

 しかし、私が、〈内からの読み〉なる言辞から思い浮かべるのは、
 子安氏が箇条的に挙げられている、ある個人に属するものどもへ対して、
 人と人、人と物との関わりの一形態“共振”するということ。

 小林氏は、宣長の発想に、何よりまず共振されているのだ
 と私には感受されるわけで。
 宣長もまた、古文書に共振しているのが魅力だと前言したけれど、
 『本居宣長』を開くとき私は小林氏に共振しており、
 小林氏を介して宣長に、
 果ては、彼を介して古代人に共振しているのか、
 共振現象は、個人を介在させつつ伝播して行くと考えられ得るか・・・・・。

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