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〈神様からの贈り物H〉 引用
池見 隆雄 2013/11/9(土)15:53:11 No.20131109145813 削除
 宣長への〈内からの読み〉との決別は、同時に、
 宣長その人の〈内からの読み〉、あるいは、
 彼の〈内からの表現〉との訣別を意味するだろう。
 そして、そのとき、一体、何が見えてくるのか?

 私は、前に、『古事記傳』は宣長作の『源氏物語』かもしれないと記したが、
 『源氏』を外部から見たならば、
 描写の彫琢いかんに拘わらず、風俗小説以外の何ものでもないだろう。
 そのように『古事記傳』は、
 あるイデオロギー支持の方便という骨組としか映じてこないのではないか。

 また、小林氏の〈内からの読み〉の究極は、
 このようだと結論せざるを得なくなるのではないか
 ――再度、『宣長問題とは何か』の「結び」から引用する、

   「『古事記』のテクストとは、宣長にしたがって言えば、
   漢字を用いて“やまとことば”を表記した最初のものです。(中略)
   その『古事記』を通して小林は宣長とともに、
   日本語の発生の現場に立とうといたします。
   いいかえれば成立期の日本語の“肉声”を聞こうとするのです。
   そしてその“肉声”に聞き取られるのは、
   その“肉声”に現前すると信じられている成立期の日本人の魂、民族意識です。
   “やまとことば”の“肉声”に現前するのは“やまとごころ”です。
   小林は古代日本人の言葉の発生の現場に立つことによって、
   日本民族という内部の成立を確認するのです。
   宣長を〈内から読む〉ことを主張する小林が、
   『本居宣長』でやりとげたのはそのことです」。

 私は、宣長また小林氏の内への視線が、
 “やまとごころ”(日本民族という内部)に止まっていたとは思わない。
 そのわけにつき、回りくどくなるのを覚悟で述べてみようと思う。

 まず、“やまとごころ”は、大和魂とも言い換えられる。
 一般に、「大和魂」というと、
 忠誠心に基く飽くことのない闘争心と言った含みで捉えられがちだが、
 平安期(あるいは、それ以前から?)に、この語は、
 小賢しい理屈へ対して、
 学問のあるなしに拘わらず、人が身に付けている内部発生的な生活の智慧を指しており、
 宣長もそれを踏襲したのではないか。

 次に、『古事記』の漢字表記について。
 それ即ち漢文というのでない。
 漢文の文章構造の採用されている箇所もままあるけれど、
 大方は、漢字が、表音的に使用されている 
 ――それにも二種あって、一方が(萬葉)仮名、もう一方が借字。
 前者では、漢字の音読みの音を、後者では、訓読みの音を生かすのだ。
   一例をあげれば、神や大君への枕詞、「ちはやぶる」の「ち」は、
   風の意というが、萬葉集では、「千早振」、「血速旧」などと表記される。
   「千」の音読みの音と、「血」の訓読みの音とが、
   それぞれ採られているわけだ。

 漢文、仮名、借字の混在する、句読点も返り点も皆無の漢字の連なり、
 しかも、繰り返し書写されつつ、千年を超えて伝えられてきたため誤字だらけ、
 の文書『古事記』は、当初、宣長にさえ、暗号めいて映じたのではないか。
 そこから彼は、確信と予備研究の集積に拠りつつ、
 忍耐強く、共感・共振的に、
 元の“語り”としての“やまとことば”を洗い出そうと試みる。
   

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