みんなの広場「こころのパレット」

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〈 契 機 〉 引用
池見 隆雄 2013/12/20(金)15:20:11 No.20131220145059 削除
 明年1月10日から13日まで、第5回目の「赤穂エンカウンター・グループ」。
 於 赤穂ハイツ――各部屋からの瀬戸内の眺望絶佳。

 昨年そこへ出かけたときは、
 宣長の『石上私淑言(いそのかみささめごと)』からのコピー持参。
 今年は、確か、『玉勝間(たまかつま)』からのコピーだった。
 一昨年の春頃から、宣長の著作を読み出したのだったか?

 14〜15年前になるか、無闇と文語文が読みたくなり、
 新井白石の自伝、『折たく柴の記』を手に取ったのが、
 宣長まで繫がってきたのだと顧みられる。

 白石が、“聖人の道”――儒教の学びと実践へ導かれたのは、
 少年の時に、友人宅を訪うと、
 彼の机上に中江藤樹の『翁問答』が積まれており、
 それを借り受けて目を通したのを契機とする。

 私も、白石の自伝の後、
 藤樹晩年の、師弟の問答形式の著作を選択したものだ。
 それから、藤樹の弟子、熊沢蕃山の『集議和書』など・・・・・。

 宣長は、儒教仏教の「道」を、
 “さかしら”(人智の思い上がり)と頑なに拒否するが、
 彼もまた、「道」を説く。
 その学びこそ、古学という学問の要なのだと。

 彼の「道」とは何か?
 いわば“いのち”が人という形をとったのであるから、
 それに自ずから備わっている、
 人としての生き方に添って行くということ。

 理屈でなく、
 事実として「道」を暗示する書が『古事記』というわけだ。
 だから、それを読み解くには、
 知識、知力に加えて、というより、その前提として、
 歌――言葉を愛でる感受性の養成が不可欠になる。

  (サラの卵が、一昨日で、10個に達した。)

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