みんなの広場「こころのパレット」

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〈オトクニ〉 引用
池見 隆雄 2014/1/15(水)14:33:04 No.20140115134920 削除
 一昨日正午、赤穂グループ終了。
 午後4時14分、JR「博多」駅着の新幹線で帰福。
 幸い、今回のグループに、思い残すことなし。

 赤穂へ、『日本書紀』巻第六のコピー持参
    ――垂仁天皇の事蹟。

 なぜこの巻を選んだかといえば、
 纏向(マキムク)に住居して治世を行った天皇名を知りたく『日本書紀』を繙(ひもと)いたところ、
 巻第三の神武天皇記以降、冒頭に都の所在が示されているので、
 各巻のそのあたりへざっと目を通しつつ、
 巻第六に到って、
 「更に纏向に都をつくる。これを珠城宮(タマキノミヤ)と謂ふ」とあり、
 “国譲り”を想わせる記載も、
 そこに見出せるかもしれないとの期待が高まったのだった。

 グループ二日目早朝――午前6時前、
 カーテンを開いても、まだ、空と海とは、墨色に沈んでいる。
 明るくなれば、朝食前に新鮮な空気を吸いに出るつもりで、
 コピーを広げる。

 幾らか読み進んだところで、思わぬ拾い物。
 ――垂仁天皇の15年春、天皇は、
    丹波道主王(タニハノチヌシノオホキミ)の5人の娘たちを、
    後宮へ喚(め)し入れる。
    秋8月、長女の日菜酢媛命(ヒバスヒメノミコト)を皇后に立て、
    次女から四女までを、妃(ミメ――正室へ対する側室に当たるか)に。
    しかし、五女の竹野媛(タカノヒメ)は、
    容姿が醜くかったため、生国へ返し遣られた。

    竹野媛は、そのことを羞じ、山城国葛野へ来かかったところで、
    輿(こし)から我と我が身を落下させ、死(みまか)ってしまった。
    それに因み、その地は堕国(オチクニ)と名づけられ、
    後に、その音が転化してオトクニ(乙訓)と呼ばれるようになったという。

 以上は、今ふうには、地名起源説話と見なされるわけだろうが、
 虚構にしろ、竹野媛の深い哀傷が、思い遣られてならない。

 また、5(4)人の媛が後宮に入れられるについては、
 前皇后、狭穂姫(サホビメ)の、
 天皇暗殺の陰謀に巻き込まれての自死という悲劇も絡んでおり、
 地名起源説話と言い切るには、手が込み過ぎている。

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