硫黄島からの大叔父の最後の手紙(昭和20年2月6日配達)も、
『コッコおばちゃん』に次いで省略を施して再度引用しておきたい。
テレビのドラマでも、その一部が、朗読された。
「なる子様(大叔母)
今日までの、長い15年間を回想してみますと、
その生活の行程に相当の綾があり、
かなりの曲折があったように思います。
そのうちでも、草場(大叔母の故郷。現在の福岡県久留米市草場。
義理の大叔父は、この地で、大叔母の実兄――私の祖父と共に
酒造工場を経営していた) における生活というものは、
ひとつは、結婚以来大変ご苦労をかけた貴女に対する贈り物として、
最初から計画していたことでした。
今日これを考えてみますと、
最も印象的な多感な鮮明さを持った劇のような2年でした。
そして少しも不快な味を残さない、
美しい絵巻物のような気が致します。
毎日、子供等と大変感謝して頂いた美味しかった御飯、
お茶好みの私のために特に備えてくれた夕食後のお茶、
子供達と日課のようにした風呂場の合唱、
目に深みるような色彩の新鮮な野菜、
応接間より伝ってくるノートルダム(時計メーカー?)の刻む響き、
重役会の賑やかさ、屈託ない会合の快さ、
松葉越しに見た庭の名目、
お兄上様の訪ねてくださる足音。
抱腹毎日食べさせて貰った芋の美味しさ、
と 次々と尽きる知らず湧いて出て、
何時どんな時でも心を愉しませあかるくしてくれます。
子供にもどんなよい教育となった事か
分からないと思います。
そして自分と同様に、ときおり事に触れて連想し、
追憶に導かれる子供等の姿が、いじらしく感じられます。
良雄 」
最後の一文によって、
大叔父に連想や追憶に耽りがちな一面のあったのが窺われ、
親近感も覚える。
大叔母は、
戦争末期に到って夫が応集、戦死しなければ、
「奥様」と呼ばれ、
詩歌を嗜(たしな)むなど物心豊かな生活を享受できていたはずだ。
硫黄島陥落後、福岡市内の自宅さえ空襲で焼失し、
つましい暮らしの中で5人の子供たちを恙(つつが)なく育て上げもし、
戦後を59年間生きた。
私が大叔母と最後に顔を合わせたのは、昭和52(1977)年
――私が結婚した年なのでよく覚えている。
その後、私の内心で、
この人の存在感はほとんど跡形を留めないくらいに薄れてしまい、
母から、「なる子おばしゃまが亡くなった」と伝え聞いても平然としていた、
幼児期から学童期へかけ、草場の母の実家に里帰りするごとに、
足繁く最寄の大叔母宅へ通い、
大変お世話になり、ご迷惑もかけたのに である。
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