みんなの広場「こころのパレット」

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〈生存の手応え C〉 引用
池見 隆雄 2016/4/4(月)13:18:41 No.20160404120640 削除
 硫黄島からの大叔父の最後の手紙(昭和20年2月6日配達)も、
 『コッコおばちゃん』に次いで省略を施して再度引用しておきたい。
 テレビのドラマでも、その一部が、朗読された。

 「なる子様(大叔母)

   今日までの、長い15年間を回想してみますと、
   その生活の行程に相当の綾があり、
   かなりの曲折があったように思います。

   そのうちでも、草場(大叔母の故郷。現在の福岡県久留米市草場。
   義理の大叔父は、この地で、大叔母の実兄――私の祖父と共に
   酒造工場を経営していた) における生活というものは、
   ひとつは、結婚以来大変ご苦労をかけた貴女に対する贈り物として、
   最初から計画していたことでした。

   今日これを考えてみますと、
   最も印象的な多感な鮮明さを持った劇のような2年でした。
   そして少しも不快な味を残さない、
   美しい絵巻物のような気が致します。

   毎日、子供等と大変感謝して頂いた美味しかった御飯、
   お茶好みの私のために特に備えてくれた夕食後のお茶、
   子供達と日課のようにした風呂場の合唱、
   目に深みるような色彩の新鮮な野菜、
   応接間より伝ってくるノートルダム(時計メーカー?)の刻む響き、
   重役会の賑やかさ、屈託ない会合の快さ、
   松葉越しに見た庭の名目、
   お兄上様の訪ねてくださる足音。

   抱腹毎日食べさせて貰った芋の美味しさ、
   と 次々と尽きる知らず湧いて出て、
   何時どんな時でも心を愉しませあかるくしてくれます。

   子供にもどんなよい教育となった事か
   分からないと思います。
   そして自分と同様に、ときおり事に触れて連想し、
   追憶に導かれる子供等の姿が、いじらしく感じられます。
      
                           良雄 」

 最後の一文によって、
 大叔父に連想や追憶に耽りがちな一面のあったのが窺われ、
 親近感も覚える。

 大叔母は、
 戦争末期に到って夫が応集、戦死しなければ、
 「奥様」と呼ばれ、
 詩歌を嗜(たしな)むなど物心豊かな生活を享受できていたはずだ。

 硫黄島陥落後、福岡市内の自宅さえ空襲で焼失し、
 つましい暮らしの中で5人の子供たちを恙(つつが)なく育て上げもし、
 戦後を59年間生きた。

 私が大叔母と最後に顔を合わせたのは、昭和52(1977)年
 ――私が結婚した年なのでよく覚えている。
 その後、私の内心で、
 この人の存在感はほとんど跡形を留めないくらいに薄れてしまい、
 母から、「なる子おばしゃまが亡くなった」と伝え聞いても平然としていた、

 幼児期から学童期へかけ、草場の母の実家に里帰りするごとに、
 足繁く最寄の大叔母宅へ通い、
 大変お世話になり、ご迷惑もかけたのに である。
   

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