母はF氏と同年齢であり、夫の知人という以上に、
同じ軍国の空気を吸い、肯定的にそれへ身を挺していた者同士として親近感を抱いていたし、
人を避けてばかりの私の意想外の申し出を、ほとんど小躍りせんばかりに受け止めた。
母を通しての私の申し出にF氏もまた乗り気で、
一週間も経ないうちに、当方を訪ねて下さるという。
玄関へ迎えに出た母と応接間へ入ってこられたF氏は、
ソファーに掛けている私へ旧知のごとく親し気に、そして快活に、
「隆雄さん」と。
F氏は頭髪こそ薄くなっておられたけれど、
その年頃の方にしては上背があり、
恐らく曾てのパイロット時そのままに引き締まった身体つき。
姿勢が正しかった。
能弁なF氏は、ほとんど問わず語りに、
戦時の体験、
あるいは共に戦った、その多くは亡くなった友への色あせぬ追慕を披瀝される。
特攻隊には17,18歳の実戦経験皆無の少年兵も少なからず交じっていたが、
F氏は終戦当時20歳、敏腕の戦闘機乗りだったらしい。
終戦が一週間も遅延していたなら、特攻死を免れなかったという。
一方の耳が不自由でいらっしゃったが、
あるときグラマン(米国の主力戦闘機)に追尾され、
それから逃れるため一気に数千メートル急降下せざるを得なかったとき、
「鼓膜をやられた」とのこと。
無論私は、何十年かを隔てた過去の出来事それ自体が、
精力的に口を開くかのようなF氏の語り口に耳を澄ませていたが、
予(かね)ての翹望(ぎょうぼう)の一端が潤うその一方、
種々の機会に反復された結果であろうか、
話柄はともかくそれを支持する想念に私との接触の正にその機会に発動されたという、
初々しさのダイナミクスが欠けているようなのを憾(うら)みとした。
といって、F氏とのひと時は、
対人緊張から解放されはしないものの、
他者と時と場所とを共にしつつ尚心地良い、私には久し振りの機会に違いなかった。
母はF氏へ、私の暮らしの実状を訴えもしたのであろう、
戦時の体験が尽きたところで、それとなく、
自分に力になれることがあればと、私へ水を向けられた。
(続く) |