プライバシーは尊重されねばならないが、
セッションの内の有様に全く触れないのも不自然なので、
ある一場面をデフォルメを施して提示してみたい。
他に幾らも深く心を揺すぶられていながら、
私は何故か今、これを選んでしまう。
中国地方から参加の、30代専門職の女性(Aさんとする)。
私が誰か他の人へ、その人の発言から私に感じられるところを伝えようとして、
しかも、半ば拒否される具合に、
私の言、ひいては私という人間が分からないといった風な反応に出喰わして、
心穏やかでなかったときだったろうか、
セッション内外での接触が皆無といってよかったAさんが、
「わたしは、池見さんという人が分かります」と。
私の心持に救済の小波の立ったのは確かだが、それより戸惑いの方が優る。
その場が転換しかける、
つまり先程の人とのコミュニケーションを更に望んでも稔りがなさそうだと私が諦めかけたとき、
今度は、Aさんが、どのように私を分かってくれているのかへの関心が、
強く頭を擡(もた)げてくる。
とうとう、そのことをAさんへ問いかけると、彼女もまたもじもじと戸惑った様だ。
私は、追い打ちを掛けるも同然に、
「僕が誰かを分かるとか、誰かに分かって貰えたという場合、
互いが各々の気持ちを言葉に表す努力を重ねる中で、
『あっそういうことか』と腑に落ちる、そういう感じなんだけれど、
Aさんが僕を分かるというのは、そういうのとはまた違う分かり方なのかな?
Aさんは分かってくれているのかもしれないけれど、
僕の方としてはAさんを分かったという感じが持てないもんだから、
分かって貰えているという感じを持てないというか・・・・」
彼女が狼狽までエスカレートするのが、明らかに看て取れるので、
私はもうそれ以上踏み出せない。
とともに、私自身にとって自明と思われていた“分かり方”を超え出たその範疇があり得るのかと、
心中に不安の霧が漂い始める。
その後の別のセッションで、グループ内の会話・話題の流れに沿っていると、
いつの間にか私は改めてAさんへ、従前の問い掛けを反復せざるを得なくなっていた、
――Aさんと何とか相互理解に達したい、と。
しかし、そのとき、Aさんの顔面は紅潮し、
前にも増して、狼狽ぶりは痛ましいほど。
私は進みも退きも出来ず、
Aさん諸共、窮地に追い込まれたかに実感された。
日頃から寡黙が常態の、私より年嵩の一方のファシリテーターが、
「Aさんは・・・」と口火を切りかけるので、
グループ中の目が、彼へ注がれる。
「Aさんは、池見さんを“からだ”で分かるということですね」
するとAさんは、きつい縛(いまし)めから解放された安堵感を、
「そうなんです」と迸(ほとばし)らせ、
次いで大粒の涙が、幾条もその頬を伝う。
(続く)
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