みんなの広場「こころのパレット」

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〈研修へ向けて P〉 引用
池見 隆雄 2018/12/17(月)15:54:01 No.20181217154259 削除
少・青年期、壮年期に到っても、
私の「特攻」への感情移入の程度は、
抜き差しならぬとでもいったところだったように思う。

また、映画などの主人公で、
何らかの事業なり、他者のために献身的に努めながら、
その人自身は、現世的な意味で少しも幸福に恵まれない、
むしろ非業の最期を迎えたりする、そういう人生行路に接すると、
私の胸は張り裂けんばかり一杯になるのだった。

不条理への憤りもあれば、遣り切れなさ、その人物への愛着など
諸々の感情がそこには湛えられているのであるが、
それらを一括するならば、私もまた彼らに劣らず、
この社会で成功しようといった自己本位に染まらない
透明感を伴う生を「生きん」とする意思・衝動
といってもよかっただろうか?

それと、私のファシリテーターへの指向性とは、
必ずしも異質ではないように思う。
こういうと、私という人間は至極“純”な人間と聞こえもしようが、
そうでないことは、むろん、私自身が、肝に銘じて心得ている。

蓮が水底の泥の只中から茎を伸ばして水面に花を咲かせるように、
私は、心の汚泥の重畳たる堆積にこそ根を張っており、
それにまみれつつも水上を目指し、
ファシリテーションの花を咲かせようとするというべきか?

そこでその花を、
姿形において、グループへ滅私的であったり、他者へ献身的であったりし、
本質において、どのような他者の在り方をも己との相異と見て、
価値付けや、好悪の感情に左右されないと、
一先ず定義したいと思う・・・・・・

しかし、私の花は、花となっても、汚泥の臭気からそう免れていない。
つまり、ある種の人に共感しやすく、その逆もまた真となりがち、
ファシリとしての自分の存在感を参加者のフィードバックに求めるとか、
最終的にそのグループがあるまとまりに達し、参加者に良い印象を与えたいなど
欲や無明も少なからず抱え込んでいる。

にも拘らず、“グループ”中のとある瞬間瞬間に、
我欲などから離脱できていることがある、確かにある。
また、そういう時に、普段の我ならぬ他者救済の智慧――着想にも恵まれるのだった。
――それも、「私」にではなく、花の本質に根差しているというべきだろう。
恐らく、そういう瞬間に潤されてきたが故に、
私は更に強く、指向し続けてきたのだと思う。

参加者の一人として加わる場合の“花”もあるけれど、
それよりその立場を担ったときに、試練の風雨にも打たれることによって、
その“花”は、姿形、本質両面において、進展の機会に恵まれやすいと、
私には切に実感されている。

さて、加齢につれて、「特攻」に関連する書物を手に取るといった機会も稀になり、
たとえそうしたとしても、心躍りは曾てと比べものにならない。
映画も合わせてそれらへの感情移入――心の共振は、その振幅を狭めてきたのだろうか?

ある意味では、確かにそうだろうと思われる。
というのが、私の感情移入の形成に、
この世――現実世界からの逃避の願望というものが混入していたと思われ、
そこが、種々の、インパクトを受ける出会い、またグループ経験の累積を経て、
人間関係にまつわる心(とからだ)の奥深さに開眼させられ、
ようやく矯(た)められてきたが故に(逃避傾向について、細かには述べない)。

もう一つ挙げるとすれば、
取り分け少・青年期の「特攻」――特攻隊員への私のイメージといえば、
それこそ“蓮”の花そのものの精神・心情になぞらえられていたわけだけれども、
次第に、そして着実に、
その戦術の無謀さ、悲惨さ、不条理へと私に視界が開けてきたがため。

取り分け、特攻隊員は人でありながら、
軍部は彼らを、一個の弾薬並みの、あるいはそれにも劣る消耗品と見なしていたのだ。
しかし、そういう過酷にして不毛な、あるいは汚泥にまみれた境遇下に置かれながらも、
己の心の方向性(思想)、色合いの感情の変化に妥協なく対峙し、
生死の相関・一如に思いを巡らせ、己を一個の“消耗品”と諦念しつつ、
尚且つその消耗に意義を添えようと努めた隊員たちも少なからず存在した。
その事実は、彼らの手記、日記、書簡などの遺品からも十分窺えることが出来ると思う。

そこで、私が、「特攻」を伝える種々のメディアへ、幾分か冷淡になったとしても、
それは多分、今あげた2つ
――己の未熟さや、組織としての「特攻」への幻滅という辺縁的理由
に拠るものであって、核心部分、つまり、
隊員たちの凝集された生の時間のなかでの求道心ともいうべき姿勢への
感嘆、憧憬、我もまたという感奮などの喚起力は、今日へまで一貫しており、
それと私のファシリテーター指向、別けても一抹の無私性とは、無縁ではない、
と、やはり言えそうに思う。

それにしても、今日、隊員たちの遺書や手記などにさえ積極的に接しようとしないのは、
彼らの生活や内省が顕著な非日常性に立脚しているため、
たとえ私が感奮させられたとしても、
その内へ、現実逃避や、それと腹背を成すところの自己否定が
否応なく忍び入ってきて迷惑を覚えるからであり、
一方に、隊員たちの生きざまはともかく、
若さと時間不足故の思想、理念、心象風景の未完成が、
現在の私に飽き足りなさを覚えさせるのでもあると思う。

このPに一応の区切りをつけるために、先走りして、以下のことを開示しておこう。

「インパクトを受ける出会い」のことを先述したが、
この「インパクト」なる語の含意とは、
――外にも人々が居合わせようと否と、私との間に会話が交わされようと否とに拘わらず、
その人と時間・空間を共有して、
あるいは、その人の謦咳(けいがい)に接していさえすれば、それだけで、
そうしてはならないと強大な力に厳命・威嚇されたかのように、
持てる力を発揮する恐れを始めとする自己否定から解放され、
自分相応の、個有の創造的行為へと伸びやかに発奮させられる。

具体的にそれらの人々を列挙するなら、
あるカソリックの外国人神父(但し、私はクリスチャンでない)、
美術を講ずる大学の一教官、
以前この「掲示板」へその人との交渉を書き込んだことのある、作家の井上光晴氏、
そして、村山先生もまた、そのお一人に他ならない。

                               (続く)

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