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〈取り違え〉 引用
池見 隆雄 2019/4/19(金)14:25:27 No.20190419131151 削除
 (〈研修へ向けて〉未完了なまま、他の題材へ手を出した、
  これも必要な迂回と自らに言い聞かせつつ。

  hikaruさん
   そのときどきで試行錯誤も避けられないだろうが、
   それもまた、
   春の花々を愛でるかのごとくであるように!)


 先月半ばで、本居宣長の『古事記傳』を手に取り始めて、6年が経過。
 現在は、全44巻中の四十一之巻目、
 「朝倉宮上巻(アサクラノミヤノカミツミマキ)」。

 ここで著者は、『古事記』の雄略天皇を廻る記載へ対し、本文の校訂、
 及びいちいちの事柄、皇族を始めとする血脈関係への解釈・推定を行っているわけだが、
 私は、この天皇の大后(皇后)、若日下部王
 (ワカクサカベノキミ――尊称が、「王」の代わりに、「命(ミコト)」となっている箇所もあり)
 の素性理解に難儀し、
 それを契機に、この巻に先立つ『古事記傳』の幾巻かを読み直し、
 『日本書紀』の関係箇所を新たに開くことにもなった次第。

 先ずは、三十二之巻、「明宮上巻(アキラノミヤノカミツミマキ)」。
 明宮に拠った統治者とは、第15代の天皇、応神。
 『古事記』本文のこの巻の頭初には、
 大后始め妃(ミメ)たちと、多くの御子たちの名が連ねられている
  (こうした体裁を、『古事記』の編著者は、各天皇ごとにしばしば採用)。
 その妃の内に日向之泉長比賣(ヒムカノイズミノナガヒメ)があり、
 彼女の子の一人を幡日之若郎女(ハタビノワキイラツメ)という。

 宣長は、この御子は、実のところ、
 応神に続く天皇、仁徳が、妃との間に成した子なのだけれど、
 その妃の名が日向髪長媛(ヒムカノカミナガヒメ)といって
 彼(か)の応神の妃、日向之泉長比賣と相似しているものだから、
 『古事記』編纂の過程で生母が取り違えられて、
 応神の御子の内へ数え入れられたと推定している、

 『日本書紀』の応神帝の血脈記載にこの御子の名が含まれていないのもまた、
 『古事記』の側の誤りを裏付けるだろうと。

 続いて三十五之巻、「高津宮上巻」(仁徳天皇の段)を改めて開くと、
 提示されている『古事記』本文中に、
 仁徳天皇が妃、(日向之)髪長比賣(カミナガヒメ)との間に設けた御子の一人が、
 波多毘能若郎女(ハタビノワキイラツメ)、その亦の名を長日比賣命(ナガヒヒメノミコト)、
 亦亦の名を若日下部命(ワカクサカベノミコト)というと明示されている。

 この人物が、宣長の説に従えば、
 応神天皇の御子に取り違えられたわけだ。

 (「ハタビノワキイラツメ」なる人名に対応する漢字表記が、
  この巻と先の三十二之巻とで異なっているのは恐らく、
  『古事記』の時代に至ってもまだ、外来文字、漢字の表記法が模索段階だったのを物語るだろう
  ――そういう意味の指摘を、宣長は『古事記傳』のそちこちに、さし挟んでいる)。

 この巻の明示によって、「朝倉宮上巻」に登場する、雄略天皇の大后、若日下部王とは、
 ハタビノワキイラツメに他ならないとも知られる。

 それにしても、若日下部王を巻き込んでの取り違えは以上に止まらず、
 それらを解明しようとの宣長の熱はいや増す。
                      (たぶん続く)

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