5匹の猫たちのうち、
2歳のチビと、1歳年少の弟の一方、イチとのからだ具合が悪くなった。
チビは皮膚を患って、取り分け腰部の脱毛が甚だしい。
イチは食物摂取が減退し、やがて何日もの拒食めいた容態へ移行。
何事にまれ物臭な私も、動物病院へ伴っていくべく、
重い腰を上げざるを得ないではないか。
事前に電話で受信を申し出ると、半ノラ故に獣医師から、
首に50センチほどの紐を付けた上で、洗濯ネットに封じ込めてくるようにとの指示。
野生を現わして暴挙に及ぶ可能性を見越してのことと承知はしていても、
“猫権侵害”と気が咎めてならない。
そこをようやく指示を充たして、
彼らをキャリーバックごと、妻の運転する車の座席へ――
私の両膝の上にバッグを抱え持ち、
衰弱しているとはいえ脱出を図ろうと声を立てる彼らへ、
絶えず慰めや励ましの言葉を掛けながら。
チビは投薬、イチは、それに加えるに注射。
幸いイチは、医師が、
「おやっ、(注射を)させてくれた」と目を丸くするくらい大人しかった。
一週間後の今日、
チビのむき出しの肌一面にはムラムラと気が伸び出してきたが、
イチの食欲は一進一退。
両者とも、なかなか服薬を肯(がえ)んじず、心配するやら苛立つやら。
その内、イチと同年のジロまで嘔吐する始末。
「もう、猫たち全部うっ放してしまいたくなった」と愚痴をこぼしても、
私の愛(執)着のほどを知る家内に一笑に付されるのみ。
そんなとき、昨年秋の3泊グループ途中、私の内面に吹き上がってきた、
「生まれて来て良かったね」の文言が思い起こされた。
猫たちへ対しては、さして抵抗なくそう伝えられそうだと。
ということは、彼らの現前を私は、無条件に喜んでいるわけだ。
表層意識より深まったところで。
その文言は、思い掛けないときに、思い掛けない仕方で私の内面を見舞ったが、
それを送り出した“主体者”を想定するならば、
その者は喜び、あるいは慈しみ自体でなくてはならない。
何故ならば、「生まれて来て良かったね」には、
何らの条件も付帯せられてはいないのだから。
喜び、慈しみ以外の心的領域、あるいは夾雑物にまみれた者が、
真実無条件に、その文言を他者へもたらすのは不可能だ。
猫たちへ対して、その文言をほぼ抵抗感なく思い浮かべられるとすれば、
私にさえ、喜び・慈しみそのもの由来の種子が、蒔かれているのかもしれない。
まして、他の人々へは。 |