毎月1回、大体第一月曜日の夜、2時間ほど、
仏教関係の書物をテキスト(あるいはダシ)とする少人数の集いを開いてきた。
もう何年経ったのか?
60回は越えているのではないか?
参加人数は、1回につき、精々5,6名。
このところテキストは、鈴木大拙氏の『大乗仏教概論』。
これは元々、欧米の仏教学者、及びその方面の通(つう)を意識して英文で書かれた啓蒙書で、
私たちは佐々木閑氏訳の岩波文庫を用いている。
そういう執筆動機だから、哲学書めいてたいへん難解。
それを敢えて選んだのは私自身であって、
第一の理由は、著者自身の見性体験を基盤においての、
気迫のにじむ堅牢な論理的記述が感銘深かったから。
第二には、それと連関して、
読者に阿(おもね)らず、己の主張を貫こうとの著者の姿勢が好ましかった。
しかし、後者は、改めて思い直せば、
「大乗仏教」の意義を欧米のインテリに知らしめようとするのだから、
当然そうあらねばならないわけだけれど。
さて、7月のその会は、6日の月曜日だった。
折しも九州全域は前日来の豪雨に見舞われており、
福岡市内も、熊本や大分にこそ及ばないが、
その雨脚は、外出をためらわせるに十分の苛烈さを呈していた。
まして会の開かれるのは夜間。
私は、協会事務局内を集い向きに設(しつら)えるその一方、
我が心の内をも、その夜は誰の訪れも期待すべきでない、と備えつつあった。
しかし、それを半ば裏切って、定刻の6時半前に、この会への初参加の男性が。
そして結局、各々いくらかの間を置いて、予定通り、
96歳の私の母を含め、私の他に6名の方々が顔を揃えられた。
着きしだい、
「今晩、この会はあるのかしら?」と半信半疑を口に上す方もあり、
参加者にとってもこの成り行きが、望外だったと窺われる。
会の進行は、テキストを一節ずつ順次、参加者に音読していただき、
次いで疑問点や感想を出し合い、理解の糸口を得ようとするわけだが、
テキストの文面や分かち合いに触発され、
そのときその場で連想された日頃の思いの言語化表出の否(いな)まれることがない、
どころか私は、そういう道草こそ、
知的理解の偏向から参会の我々をして、
人間性の沃野(よくや)へと解き放たせる鍵を握ると見なしている。
(続く) |