例えば、何らかの出来事をきっかけに内なる風景が開け、明るみ、
未来を創る道筋も見定められそうで、心躍りに駆られる、
正にその瞬間、
それを阻もうとする、あるいは不可能との刃を突きつけてくる、
器質的(現在なら左耳の聴力低下)、神経的不均衡が頭をもたげてくる、
少なくもこの三、四十年間、
そうした厄介に、私は、たびたび見舞われ続けてきた。
耳――聴覚に焦点を絞れば、
何らの対象や必要もないまま異様に緊張し、
やがてその機能の低下を前触れする耳鳴りが始まる――
耳鳴りは逆の方向、つまり改善の暗示の役目も果たすが、
両者でその音の高低や音色が異なる。
一般に、高くて細いのはマイナスを、低くて幅広のはプラスなのだが、
この場合はむろん前者である。
その緊張を弛めるべく意識的手立てはさらになく、
この状態が持続すれば聴力が低減との強い不安、恐れに脅かされつつ、
手を拱(こまね)いているしかない。
そして、大抵、服薬などによる折角の改善も、元の黙阿弥に落着する。
つい10日ほど前も、そうした苦境に陥りかけ、
ある方へ電話を入れる選択をせざるを得なかったわけだが、
それはこの1年半ほどの習慣めいてもおり、最後の手段めいて認識されてもいた。
不思議の感を拭い切れないが、
さて電話を入れようと決めると、ほぼその都度、私の意識が少なからぬ変容を蒙る。
このときも、例外でなく、
混濁の最中へ清明な影が仄(ほの)めき出し、やがてそれが言葉へと形成される、
――自意識によるコントロールが不可能ということは、
この事態は、私にとって、必然というべきではないか、と。
(続く)
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