休日にしばしば私は、福岡県那珂川市郊外の「八龍神社」界隈へ出かける。
うちの子供らが保育園から小学校卒業までの間は、
ほぼ毎日曜に出かけたといってよく、
神社周辺の田畑、広場、小川、里山などは、彼女らの恰好の遊び場であり、
種々の植物、動物に親しむ貴重な機会でもあり得た。
頭を廻らせば、種々のエピソードが思い浮かんで来る。
例えば、そこへ、家内の運転する車で着いて間もなく、
保育園児の三女が、
「ヘビばいじめよう(蛇をいじめている者がいるから、助けてやって)」
と私へ、理不尽さに堪えかねるといった顔付きで訴えて来た。
私は当時、出来るだけ他人に接触したくない心情を抱えており、
その訴えに困惑しかけたが、
三女の心を救ってやらないでは、今後、父親として認知してもらえまいと心を決めた。
彼女を先に立てて、境内の疎林へ入って行くと、
果たして小学生の男児二人が、てんでに竹の棒を振りかざして、
懸命に逃れようとくねる物を追い詰めている。
「ヘビは何も悪いこといとらんやろ(してないだろ、そうじゃないか)」
とできるだけ事を荒げたくないために、私は彼らへ対して意見めいた言葉を吐いた。
しかし彼らの方は、その理屈に納得したというより、
横合いから現れたのが大人であるが故に静止したと私には認められ、
その間に、襟巻のような黄色を首へんにあしらった1メートルほどの生き物は、
木の根方のうろへ逃げ込んだ。
勢い込んでいた対象をふいに奪われた子供らは、その反動か妙に神妙で、一方が、
「この前、お祖父ちゃんが、平口(ひらくち――マムシのこと)を殺した」
とぽつりと漏らす。
「お祖父ちゃんは強いね」と反射的に応ずる。
彼らにとって、蛇は悪の象徴であるらしく、
それは退治してよいもの、いや退治する(殺す)者は称賛にさえ価し、
自分たちは、いわば正義に則っていたのだといわんばかりの意識が伺われた。
しかし、私の応答が、結果として、彼らの行動を間接的に是認することになったためか、
思いの外あっさりとその場を去って行った。
私自身、高校在学中、我が家の庭に見出した蛇を数匹、
ただ単に、私の母がこの生き物を忌み嫌うという理由からだけで手に掛けたことがある。
その罪障感はいまだ払拭されておらず、
何かのはずみにおのれの仕打ちが、鮮やかに蘇りさえする
――ぜんたい、私は、幼少期以降、内訌しがちな鬱憤を、
昆虫を始めとする小動物たちへ向けて執拗に発散させており、
それがついに、爬虫類へまでエスカレートしたという気味合いだったろうか。
40年以前、神社を囲繞(いにょう)する田園地帯には、多種、多数の動物が棲息していた。
無論、蛇に遭遇することも稀ではなく、
私は、「おヘビちゃん」と子供らに、彼らを指し示すのを常とした。
その愛着めかした言い回しも奏功してか、
子供らは、蛇をことさら厭悪せず、怯えることもなくて済んだ。
さて、話を戻さねば。
二人の男児が去った後、三女がどのような様子で、
何らか吐露したか、全く私から記憶が抜け落ちている
私自身はといえば、大きな荷を肩から下ろしたかの安堵感と、
為すべきことを為したという充足感とに包まれて、残るその日の時を過ごしたと思う。
またしても、スピノザ『エチカ』から引用、
「自己満足は人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生ずる喜びである」。
スピノザはさらに、
自己満足は、人間にとっての至高の喜びに隣接する位置を占めると述べるが、
今、その箇所を見つけ出せない。 |