みんなの広場「こころのパレット」

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〈こころ(わたし) と 心(私) A〉 引用
池見隆雄 2023/3/24(金)14:30:09 No.20230324141756 削除
 そして、“精神”ですが、こちらも神の表現に違いなく、
 しかしカタチというものを備えていないが故に、
 始めなく終わりなく、境もないという神(自然)と同様の本性を有しています。
 身体は必ず滅しますが、こちらはそれと無縁なわけです。

 また、先述の“観念”とはイメージのみならず、私たちが普通、“こころ”と思いなしているもの
 ――意識・感情・種々の欲などの座でもあります。
 こちらの“こころ”は常に変化しており、身体とともに雲散霧消するので実体のないものであり、
 それへ対して精神はカタチのない実体であり、それはまた私たちの“心”そのものでもあるのです。
 カタチのない、唯一の実体として“心”(精神)が、観念としての“こころ”をささえているわけです。
 また、この“心”と“こころ”とは、“私”と“わたし”でもあります。

 先に、すべての個物はカタチのない実体の表現と提示しましたが、
 位已光児さんによれば、表現は表現でも、無条件の喜びの表現なのです。
 もし、私自身がここで、以上を踏まえて、私たちが生きる目的、意味とは何かを改めて思案するとすれば、
 “こころ(わたし)”を通して“心(私)”の無条件の喜びを見出すことであろうかと思います。

 実は私たちは、日常においても、折々、そういう瞬間を体験していないわけではないと推測しますが、
 目的となれば、喜びを見出し、一体化することかと。
 そして、それを他者と共有して行く。
 それが限りなく拡大して行けば、「世界平和」も可能になるでしょう。
 いや、それ以外に、真の平和への道はないのではないかと思います。

 位已さんの次の一言は、それを示唆しているでしょう、
 「皆んなそれぞれ違うのに、同じ一つの地球の上に住んでいる」。
 またスピノザは、
 「喜びは徳そのものであって、徳(の実践)の報酬ではない」と。
 この「徳」を「世界平和」と捉えてもまちがいではないと思います。

 以上、甚だ拙い開陳ですが、現在の私の精一杯のところです。
 せめて精一杯を尽くさないと、Kさんの当面の戸惑いに届くまいと――。

         令和4年10月〇日                池見隆雄

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