そして、“精神”ですが、こちらも神の表現に違いなく、
しかしカタチというものを備えていないが故に、
始めなく終わりなく、境もないという神(自然)と同様の本性を有しています。
身体は必ず滅しますが、こちらはそれと無縁なわけです。
また、先述の“観念”とはイメージのみならず、私たちが普通、“こころ”と思いなしているもの
――意識・感情・種々の欲などの座でもあります。
こちらの“こころ”は常に変化しており、身体とともに雲散霧消するので実体のないものであり、
それへ対して精神はカタチのない実体であり、それはまた私たちの“心”そのものでもあるのです。
カタチのない、唯一の実体として“心”(精神)が、観念としての“こころ”をささえているわけです。
また、この“心”と“こころ”とは、“私”と“わたし”でもあります。
先に、すべての個物はカタチのない実体の表現と提示しましたが、
位已光児さんによれば、表現は表現でも、無条件の喜びの表現なのです。
もし、私自身がここで、以上を踏まえて、私たちが生きる目的、意味とは何かを改めて思案するとすれば、
“こころ(わたし)”を通して“心(私)”の無条件の喜びを見出すことであろうかと思います。
実は私たちは、日常においても、折々、そういう瞬間を体験していないわけではないと推測しますが、
目的となれば、喜びを見出し、一体化することかと。
そして、それを他者と共有して行く。
それが限りなく拡大して行けば、「世界平和」も可能になるでしょう。
いや、それ以外に、真の平和への道はないのではないかと思います。
位已さんの次の一言は、それを示唆しているでしょう、
「皆んなそれぞれ違うのに、同じ一つの地球の上に住んでいる」。
またスピノザは、
「喜びは徳そのものであって、徳(の実践)の報酬ではない」と。
この「徳」を「世界平和」と捉えてもまちがいではないと思います。
以上、甚だ拙い開陳ですが、現在の私の精一杯のところです。
せめて精一杯を尽くさないと、Kさんの当面の戸惑いに届くまいと――。
令和4年10月〇日 池見隆雄
|