先月25,26日(土・日)に、愛知県から位已光児さんに来福いただいて、
2日間の研修会を開く機会を得られた。
同ゲストによる研修会はこれで9度目。
今回のテーマは、〈親鸞聖人の悟り――身心一如の智慧〉。
テキストはその都度、位已さん自身で書き下ろされる、驚くべき短期間のうちに。
日本心身医学協会の研修会は、エンカウンター・グループ(EG)の他、
ゲストを迎える形態でも「語り手EG」と称している。
つまり、参加者は、受け身的に講話を伺うに終始せず、
ゲストへ対し大いに疑念や感想を表明し、参加者間の対話・会話も起こり得る。
そして私はファシリテーターの役割を担うわけだけれども、
その性格として、自らも、ゲストや他の参加者へ、その時々の気持のありようを伝えることも忘れない。
というより、そうせざるを得ない気持に添って行く。
私は9回目に至って、位已さんの研修会における自らの変化に気付くことができた。
1日目から薄々とその感触へ注意を引かれていたのが、
2日目に入ってほぼ確信が持てたのだった。
どういう変化か?
前回まで、私は、私自身の発言について、それらを位已さんに比べるとき、
「何とまあ浅薄なのだ」と呆れ、卑下せずにはおれなかった、
研修会を開けたことには納得が行っていたとしても。
自らの発言や応答が、従来とは異なって幾ばくか、実体を踏まえている感が持てるとでも言おうか・・・。
その“実体”ということを譬えで述べてみるとすれば、
――今、私が、満天の星を仰げる、どこか山の頂上なり、異国の平原に立っていたとしよう。
以前の位已さんの研修会に於ける私は、唯だ唯だ、それら夥(おびただ)しい星々を見上げて感嘆する他はなかったのだが、
今度の変化とは、私自身が、その星の一つとして発言しているかのようだった。
但し、目に映る星を実体と見なしているつもりはない。
スピノザは、「神即ち自然」を、「絶対無限の存在者」とも言い換えている
――ついでながら、阿弥陀仏もまた、インドの言葉「アミーダ(無限を含意する)」を人格神化したといわれる。
(因みに、親鸞の、様々な人宛ての書簡を編んだ『末燈抄』より、有名な一節を引用――
「無上仏と申すは、かたちもなくまします。
かたちもましませぬゆゑに、自然とは申すなり」)
それを平たく言い換えるなら、絶対とは唯一であり、
無限とは始めなく終わりなく、境目なく、形のない存在ということになろう。
また、形がないから何でもあり得るとも。
この世の、あるいは宇宙のありとあらゆる個物は、
形のない実体がそれぞれに形を取ったのだとスピノザは言い、位已さんも説かれる
(思想界では、これらも存在論の一とみて、「一元的汎神論」と括る)。
星々も形のない実体がその形を取ったのだから有限に違いなく、
有限なものが実体であるはずがない。
しかし、その形を取ったのは実体であるから、形は有限でもその存在は実体でないのではない。
私もまたそういう存在である、星と私との存在のありようは対等である。
今度の研修を通じて私は、星々との対等性を些か感得できた、
そういうことにしておきたい。
(終わり) |