また、「八龍神社」を廻って書く。
神社拝殿の正面奥の格子戸の向こうに、見透せはしないが、ご神体が祀られている(はず)。
その上の板壁に、額と一体化した絵が掲げられているが、
長年月の間に彩色はすっかり剥げ落ち、中央辺に、一匹の龍が上体をもたげていると想われる、
ほとんどシミ同然の黒ずんでぼやけた輪郭。
額の右手に、「明治二十一年・・・」という文字が、辛うじて読み取れる。
このありさまは、私たち一家がこの神社及びその周辺の田野を、
頻繁に訪れ始めたときから微動だにしていなかった。
ところが、昨年の晩秋、拝殿内に、思い掛けない目新しさがもたらされた。
正面の額の両脇にもまた、一回りほど小さな額が掛けられており、
それらには、氏子の内の長寿者の姓名が麗しい毛筆で書き連ねられていたのだが、
左手のより古い時代の額に、一幅の油絵が取って代わったのだ。
コミックの吹き出しを想わせられる多数の現実離れした雲の間から、
緑系の色合いの龍が、正面の額を模したと思われる姿形を現わしている。
雲の大方にはコンジキ(金色)が施されているが、
そのトーンは“金の闇”ともいうべき重苦しさを担っていなくもない。
画面の右下方に作者の名が、白色でくっきりと記されている。
女性。 その名付けの嗜好から推せば、5,60代だろうか?
決して巧みな筆の運びとは思われず、むしろたどたどしいという方が適切な形容かもしれないが、
拝殿の板張り床に反射した外光――間接光の薄暗がりにマッチして、
不思議なほどの存在感を漂わせている。
神社の案内板によれば、拝殿は江戸時代の建造だったように思うが、
その経年変化と絵の存在感とが相まって、
拝殿内が、一種、異空間めいて感受せられるのだ。
近頃は、参拝後、暫し、その異空間とわが心を共にする――何かしら、清冽な息吹の芽生え。
初めてその絵が目に止まった日だったか、帰宅後、別のある絵が思い起こされていた。
それは、私の本棚に、相当の年月、ほぼ手付かずに並んでいる書物の一、
『絵画の領分』にそのカラー画像が収載されている、
明治の洋画家、原田直次郎の手になる作、『騎龍観音』。
ちょうど神社のそれとほぼ同様の態勢の龍の首筋直下を踏みしめて、観音がすっくと立っている
――私はその書物を通読こそしていないが、一度ならずページを繰ったことはあり、
それは恐らく、その画像と作者、原田の肖像写真とが、心に銘記されていたからだ。
(続く)
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