40年以上の長年月、所蔵者から見捨てられたも同然であった書物が、
些細なきっかけから陽の目を見ることになった。
これ以前の投稿でも触れた、フランスの哲学者アランの手に掛かる『ラニョーの思い出』。
ラニョーは、アランの高校時の哲学の教授。
彼はこの書物の冒頭において、自分の知る唯一の偉人、と恩師を讃えている。
しかし、それより、今度、私がこの書物から受けた通読への強い追い風は、
僅か4項目からなる目次の一つが、「スピノザ」であり、
ラニョーが授業で取り上げる哲学者と言えば、プラトンと彼のみであったという事実。
この数年、私はスピノザに捕らえられていたところに、
全くそれとは無縁のつもりの書物にその名を見出したのは、意外を通り越して感動でさえあった。
しかし、『ラニョーの思い出』は、
その題名から想像されるような追慕に彩られた抒情的な作ではまるでなく、
論理的というのとは一線を画するが、
比喩、隠喩などの修辞法を駆使して綴られた、極めて難解な文章への対峙に倦(う)んで、
私は、「スピノザ」の章に入る手前――全体の半ばほどのところで一息入れざるを得なくなった。
そして、たまたま、ネットで見掛けていた『NHK100分de名著 アラン幸福論』を取り寄せることにした。
難解ながらに、アランに魅かれる所以(ゆえん)を微かであれ確かめておきたい欲求を無視できなかったからだ。
NHKのその本には、想定通り、アランの人となりやおおよその生涯への言及も盛られており、
アランへ対する近しさと畏敬の両面が芽生えるとともに、
『幸福論』からの引用に心揺さぶられた。
(『100分de名著』に続いて、岩波文庫版の『幸福論』全訳を購入。
この著作名は、言語からの直訳であれば『幸福のプロポ』となる。
「プロポ」とは我が国でいう「語録」といった意味で、『幸福論』は、数ページ程度の語録(小品)93篇から成っている。)
また、『100分de名著』の著者、合田正人の自註に、小林秀雄の評論『アランの事』からの引用も見出せる――
小林は、アランの愛読者であり、『精神と情熱に関する八十一章』と題した彼の訳書も出している。
ここにその引用から孫引きすれば、
「アランの文章は難解です(…)アランの豊かな模糊とした文体を楽しんだ後には、
まことに透明、一点の雲もなく澄み渡った空の様なものを僕は感じます」と。
これを目にして、私は、理解できないながら、
『ラニョーの思い出』に自分が魅かれるのが腑に落ちたようで嬉しくなったものだ。
確かにそうした空を頭上一杯に見上げる清々しさ、解放感めいているのだ。
そして、その青空は、スピノザが見出した世界――実体にどこかで繋がっているのではなかろうか。
アランは、『幸福論』のところどころで、スピノザを取り上げる、
「よろこびの達人スピノザ」であるとか、あるいは、
「スピノザがこう言っている。情念をもたない人間などはいないだろうが、
ただ賢人の場合、その魂のなかで、幸福な思惟が厖大な拡がりをもっているので、
情念はみんな、まったく片隅に追いやられて小さくなっている」など。
スピノザの文体は徹頭徹尾ロジカルだが、アランのそれは、
スピノザの文を文学の鋳型に入れて、その立脚地を損なうことなく焼き直したかのような彼一流の芳香を放つ。
それらに慰撫され、鼓舞されて、改めて『ラニョーの思い出』のページを繰り、
少なくも、その第三章に当たる「スピノザ」を読み切ろうと思う。
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