随筆、『硝子戸の中』は、
漱石の作品中でも控え目な位置を占めているのではないかと思うが、
私は長年、これを愛好してきた。
取り分け、
漱石ファンでもある、精神的に瀬戸際の女性との数回にわたる対話の一節
(女性の具体的情況には一切言及されないが)。
女性は四度、漱石宅を訪れたのだったと思う。
最後の機会、夜も更けたので、漱石は、女性を送って出る。
何度も彼女は、「先生に送っていただいては、勿体のうございます」
と恐縮と信頼のていなのだが、
それへ対して、漱石が、最後に発する一言。
この一言が、幾度読んでも、私の胸を、共鳴体同然に鳴り響かせてやまない。
「フォーカシング」的にいうならば “シフト”、
「中動態」的にいうならば “変状”の結果だということもできようが、
それにしても、
この漱石側の心境の、ある種の質的飛躍の程度は、ただごとではないと思う。
仮に、人だれしもに共通の、
だれしもが相互に支え合っている心的領域といったものが実在するとして、
漱石は、そうした領域にふと踏み込んだとでもいう他ない。
とすればそれは、読み手の私自身へのメッセージでもあるのだろう・
別の表現に置き換え可能ならば、
「生きていること自体が喜びだ」とでもなるだろうか?
来月の吉良さんの研修会では、
フォーカシングのオーソリティの吉良さんと、このあたりを語り合えれば幸いと思う。 |