前置き
母は昨年7月中に他界したが、その数年以前からか郵便受けに、
母宛ての、東京在のN・Hさんからの封書や葉書を、まま見掛けることがあった。
H家は母方の親戚筋であるが、
私は今日まで、その関係の仔細に無頓着なままで来た。
だいたい、私の結婚の媒酌を、母からの依頼で引き受けて下さったのもH家のご夫妻であり、
疾(と)うに亡くなっている筈のご両人の、
N・Hさんは子に当たるのだろうかと推測されなくもなかった。
今夏の母の一周忌法要の数日後、
その方から私と妹宛てに、母の郷里に近い○○市の銘菓が届けられた、
曾ての私たちとって垂涎(すいぜん)の的足り得た、滋味豊かな「△△餅」。
妹から伝え聞いたところでは、
母没後間もなくN・Hさんから母宛て電話があり、
母の死没のありのままを、妹が応答すると、
母の容態の急展を知られる由もなかったのだから心底驚かれたという。
訃報が、母の実家からそちらへ不達だったとすれば、
H家は、親類にしても割り合い遠いのだろうかと想われなくもなかった。
何しろ私は、N・Hさんと我が家との縁も切れそうだというこのときに当たって、
その方と母との間の血の濃淡がどの程度なのかを確かめたい自(おの)ずからな欲求に駆られ、
先方への失礼をも顧みず、お礼かたがた問い合わせの書信を送らせていただいた。
幸いなことに、10日ほど後、
86歳の女性の手になるとは思い難い
おおらかで格式正しい万年筆の文字、淀みのない文面で認(したた)められた、
私の無知の闇の隅々までを余さず照らすご丁重な返書がもたらされた。
事実
@H家は代々、○○藩の家老職に任ぜられる家柄で、
私の母方の祖母―私の母の実母、道代は、その家から、母の実家へ嫁して来た。
道代の上の弟がご長男(ご当主)であり、N・Hさんはその二女。
N・Hさんと私の母とは従姉妹どうしということになる――
但し、Nさんは、父君36歳のときの子であるので、私の母より13歳もの年少。
Aご当主は、昭和29(1954)年、53歳で、癌のため最期を、九州大学病院内で迎えられた
――恐らく、その病棟は、当時、私の父が助教授を務めていた「第三内科」に属していただろう。
その9年後の昭和38年、父を初代教授として、
我が国初の「精神身体(心身)医学」の臨床講座(心療内科)が、九州大学医学部に発足。
(続く)
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