事実(続き)
BN・Hさんには、姉・妹・弟さんが一人ずつあり、姉さんは早逝されたらしい。
ご当主死去の後、夫人の意向(?)で、一家を挙げて東京都内へ移住。
私たち夫婦成婚の媒酌人を受けて下さったのは、ご当主の弟さんご夫妻で、
こちらは昭和63年、88歳で死去。
ご夫婦はずっと、福岡市住まいであった。
東京移住に際してH家の住居や土地がどう扱われたのか気に掛からなくもないが、
それはともかく、ご当主の夫人は東京から嫁(とつ)いで来られ、
夫の死後、生家を頼って上京されたとも考えられる。
以上のような事実を目の前にして、また私自身の憶測が膨らむにつれ、
“とき・ところ”が抜け落ち、入り組んだ情調に彩られた私の幼年期の記憶二種が、
母にH家へ伴われて行った際のものではなかろうかとほぼ確信されて来、
更にそれをN・Hさんに裏付けていただきたい、
これも自(おの)ずからな欲求を抑えかね、私は、以下のような第二信を送呈したのだった。
手紙
H 様
厳しい暑気が続いていますが、その後、お元気のことと拝察申します。
過日は、私の不躾なお尋ねに対し、ご丁重なご返書頂戴し恐縮しました。
お陰様で、H家と母方の祖母・母との間柄、
私たちの媒酌を務めて下さったのが叔父様ご夫妻でいらっしゃったなど、
私の胸中の一団のモヤモヤが、その構成要素それぞれに形を与えられ、
納まるべきところへ納まるかのような心地でおります。
とともに、H家のご家族構成や、ご当主が亡くなられた時期などから、
私の幼年時のとある記憶が、H家を舞台にしているのではなかろうかと思われてきましたので、
ご関心を持ってもいただけるかもしれないと再度ペンを執った次第です。
今日まで消え残っている幼年時の記憶のそう多くはない中に、
何故かしら色褪せない、そして何かの折ふと思い浮かんで来ては、
これは一体どこの場所――お宅なのだろうと考え込まされる二種の情景が存します。
@就学前の私は、実家に里帰り中の母親に伴われて、あるお宅を訪うのです、
冬期のことと思われ、座敷に長火鉢が据えられていました。
火鉢を前に坐したその家の女主人と思われる方の、母は私から見れば右手に居ながら、
互いに顔を寄せ合うようにして、親し気に何やら話し込んでいます。
戸口を入ると直ぐ土間になっており、その土間から上がり框まで相当な高さがあり、
上寄りに一つ足掛かりが設けられ、私は、座敷へは上げて貰えず、
そこに腰かけて待っておりました。――その時の私の胸中は、
母と切り離された不満と、そのお宅の格式からして、その処遇も止むを得ないとの諦念だったと、
今日なら言語化できそうに思えます。
(続く)
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