「申し訳ありません」と言うのが簡単なためしはない。とりわけ、公の場で国の代表として言うのは至難の業と言える。この
数十年の間に、歴史的不正に対する公的謝罪を巡って、議論が数多く見られた。ドイツはホロコーストの賠償金として、何十
億ドルにも相当する金額を生存者とイスラエル政府に支払ってきた。オーストラリアでは近年、先住民に対する政府の責務を
巡って論争が激化している。1910年代から1970年代まで、先住民の血の混じった子供は強制的に母親から引き離され、白人
の里親か隔離施設に預けられた。この政策の目的は、混血児を白人社会に同化させ、先住民文化の消滅を早めるためだった。
2008年新首相になったケヴィン・ラッドが先住民への公式謝罪をした。アメリカでも第2次大戦中、西海岸で日系アメリカ人
を強制収容所に収容したことを公式に謝罪する法律が成立した。法律では収容された生存者に2万ドルの賠償金が支払われた
おそらく、アメリカが抱える最大の謝罪論争は、奴隷制の後遺症に関わるものだ。解放奴隷に土地40エイカー(約16ha)と
らば1頭を与えるという南北戦争時の公約は果たされないままだった。補償を求める運動は足踏み状態にあるものの、近年、
奴隷保有州だった多くが公式謝罪を次々に行っている。国家は歴史上の過ちを謝罪すべきだろうか。公式謝罪する主な理由は、
不正に虐げられた人々を追悼し、被害者とその子孫に今なお及ぶ不正の影響を認め不正をなした側の過ちを補うためだ。公式
謝罪は過去の傷をふさぎ、道徳的・政治的和解の基礎作りに役立つ。これらのことが謝罪の根拠として十分かどうかは、状況
次第である。ときには、公式謝罪が有害無益になることもある。昔の敵意を呼び覚まし、歴史的憎しみを増大させ、被害者
意識を深く植え付け、反感を呼び起こすからだ。公的謝罪に反対する人々はそうした懸念を表明する。結局、謝罪や弁済が
修復するか傷つけるかは、政治的判断を要する複雑な問題なのだ。
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